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そろそろ君を食べてもいいかい

夏兄と郁弥との付き合いはかれこれ十年近くなる。いわゆる幼なじみというやつだ。岩鳶へと引っ越してきた時に最初に声を掛けてくれたのが近所に住む二人だった。と言っても実際に話しかけてきたのは夏兄で、郁弥はひたすら夏兄の後ろに隠れて怯えた様子で私を見ていたのだけど。
夏兄の明るく話しやすい人柄に私はすぐに打ち解けた。見知らぬ土地での不安も二人が町案内してくれたおかげですぐに消え去ったし、他にも色々と教えてくれたり、時には話を聞いてくれた。あの時の私からすれば年上の男の子というのはとても大人に見えて、いつだって頼りになる憧れの存在だった。その思いは今になっても変わらない。ただひとつを除いては。

「はい、これ誕生日プレゼント」
「わーありがと郁弥!今年は何かな〜……」

一年に一度、この日を迎える度に私は本当に恵まれているなといつも実感する。出会った年から毎年恒例となっているプレゼントはやっぱりいくつになっても嬉しいし心が躍る。二人がアメリカへ留学している時もわざわざ送ってきてくれたほどだ。幼なじみとはいえ二人の中で私の存在がそれなりのものだと思うと何だか胸が温かくなる。こういうことは面と向かって言うのは恥ずかしいから口には出さないけど。そんなことを思いながら小さな紙製のショッピングバッグに手を入れれば「ちょっと」と郁弥の制止する声が聞こえてくる。

「僕がいる前で開けないでよ」
「え、何でよ。早く見たいじゃん」
「どんなリアクションであれ目の前で見せられるのはなんか嫌なんだよ。ていうかこのやり取り去年もした気がするんだけど」
「そうだっけ?仕方ないなぁ。じゃああとで開けるね」

ここは素直に聞くことにして袋を閉じた。はやる気持ちを抑えていれば郁弥が「この後なんだけど」と次の話題を切り出す。

「うん」
「今年は兄貴と二人で過ごせば」
「どしたの急に。何か用事でもあるの?誕生日はいつも三人でケーキ食べるのが恒例なのに」

突拍子もなく言われたそれに疑問符を浮かべながら郁弥に問いかけてみれば、郁弥はわざとらしく大きなため息を吐いた。私をじろりと見つめる視線に訳もなく喉が詰まる。だって見るからに呆れた顔してるから。

「気遣ってあげてるんだから察しなよ」
「それは……」
「好きなんでしょ、兄貴のこと」

いきなり図星を突かれて今度こそ喉が詰まる。
私は昔から郁弥の透き通ったその瞳が少しだけ苦手だった。夏兄と違って郁弥はあまり社交的ではないからこそ、その瞳の奥に宿る思いが強く私に響いた。『目は口ほどに物を言う』というのはまさにこういうことを言うのだと実感させられるのだ。郁弥みたいな人は人一倍他人の感情に敏感で、人の気持ちがよくわかる。だから私がいつからか秘めていたその想い――夏兄を見つめる瞳には隠せない色が付いていたことにもきっと気付いていたんだろう。郁弥からしたらさぞ不本意で知りたくはなかったことだろうけど。

「だいたい、身内の恋愛事情なんて知りたくないし」
「それは相手が夏兄だからじゃない?」

だってほら、郁弥お兄ちゃん大好きだし。なんてことは怒られそうなのが目に見えてるから絶対に言わないけど。

「兄貴“も”だからだよ」
「……え、え?」
「とにかくそういうことだから僕は遠慮するから。兄貴からのプレゼント楽しみにしてたらいいんじゃない」

「じゃあ僕部屋行くから」なんて一方的に会話が終了し、何かを言う余裕すらなくて部屋を出ていく郁弥の背中をただただ眺めることしかできずにいた。リビングのドアが閉まり、しんと静まり返った空間にひとり佇みながら必死に思考を巡らせるも、あまりにも流れるように言われたその言葉を理解するには到底処理が追いつかなかった。ただ自分の鼓動の速まった音だけがそこにある。
そのうちしばらくしたら夏兄も帰ってくる。その時いったい私はどんな顔をして話せばいい?今までしていた振る舞いが急にわからなくなった。


「なまえ具合悪いのか?」
「へっ!?」
「帰ってきてから全然喋らないから。大丈夫か?」

あれから日が沈んだ頃、夏兄が帰ってきた。今までなら出迎えてケーキを急かしていたけれどさすがにそんな余裕はなく、ただいまの一言におかえりと返すので精一杯だった。会話をしようにも脳内であれこれ考えてしまって余計口数が減る始末。案の定夏兄に心配されてしまった。

「ぜ、全然平気!それより早くケーキ食べたい」
「そんなに急がなくてもケーキは逃げないぞ」

夏兄は朗らかに笑ってぽんぽんと私の頭を優しく撫でる。小さい頃からされていることなのに郁弥が言った言葉のせいで変に色々と考えてしまう。郁弥はああ言っていたが夏兄の触れる手つきは昔と変わらない。私を安心させてくれる、温かい手だ。恋人に触れるような欲も熱もない。

「郁弥は帰ってきてるのか?」
「うん、部屋にいるよ」
「じゃあ呼んでくるか」
「あっ!郁弥、今日は疲れてて仮眠取りたいからケーキは先に二人で食べててって!」
「はあ?なんだ郁弥の奴。せっかくのなまえの誕生日だっていうのに……」

「しょうがねぇ。先に準備すっからなまえは座って待っててな」と夏兄は帰宅早々準備を始めた。キッチンのほうへと行ったところで落ち着かせるように息を吐く。郁弥にも夏兄にも申し訳ない気持ちで何だかいたたまれなくなるが、郁弥がくれたチャンスを無下にはできない。咄嗟についた嘘にごめん郁弥、と内心手を合わせる。夏兄が意外にもあっさりと諦めてくれたのが救いだった。
結局のところ、なんだかんだ言いながらも心の奥底では淡い期待を抱いているということだ。下心に支配された自分自身に思わず自嘲した。
夏兄が準備をしている間、そういえばと郁弥からもらったプレゼントを開けてみれば中に入っていたのはいつだったか可愛いと話したキャラクターのキーホルダーだった。わりと可愛いものが好きな郁弥らしいチョイスについ笑みがこぼれる。テーブルに置いて眺めていれば不思議と肩の力も抜けていた。

「今年は隣町の店の桃のケーキだぞ〜」
「わ、美味しそう……!」

淹れたての紅茶とともに並べられた白とピンクの色合いに思わず声を上げる。毎年ケーキの担当は夏兄なのだが、今までのケーキもどれも当たりだったから今年もとても楽しみにしていた。泳ぎだけでなくこういったところでもセンスを発揮してくるのだから困ったものだ。

「それ郁弥からか?」
「うん。可愛いよね。あとで部屋に飾ろう」
「……今朝も言ったが改めて。なまえ誕生日おめでとう」
「うん、ありがとう」
「それと……これは俺からのプレゼントな。なまえももう十八歳だし最近化粧するようになっただろ?」

郁弥のものとは違い、袋がブランドのロゴが主張するようにプリントされたもので息を飲む。普段はプチプラのコスメしか使わない私からすれば、その見るからに高そうな見た目にそわそわしてしまうのは仕方のないことだった。

「開けていい?」
「おう」

ドキドキしながら開けてみれば、持っているだけで気分も女性としての魅力も格段に上がるようなパッケージのリップがあった。

「可愛い……!早速つける!」
「いいけどどっちみちケーキ食ったら落ちるぞ?」
「いいの!」
「ったくしょうがないな。……ほら鏡」
「ありがとう、夏兄。すごく嬉しい」

どこからともなく差し出された鏡を受け取り、高まる気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと唇をなぞる。ああ、この抑えられない高揚感はまさに遠足が楽しみで眠れないあの時と同じだ。
主張しすぎず、しかしほどよく存在感を示す淡い桃色に自然と口角が上がる。頬が緩むのをもはや自分ではコントロールできないほどに舞い上がっていた。

「ん、よく似合ってる」

舞い上がりすぎていて夏兄が顔を覗き込んできた距離が思いのほか近いことに気が付かなかった。あ、と思った時には夏兄の手は私の頬を包み込むように触れていた。その手の温もりが、触れる手つきが、先程と確実に違うことを察してしまって一瞬にして熱が頬に集中する。

「ぁ……夏兄、」
「今日からその夏兄って呼び方やめねぇ?」
「え……」
「なまえ、好きだ」

私が夏兄を異性として意識し始めたのはおそらく中学生の頃。背が伸びて声変わりもして体つきも良くなって。これと言ったきっかけはなく、そういう要素に気付けば異性として見るようになった。いわゆる思春期に訪れるそれに近い。
面倒見がよく頼れる存在なのは今も変わらないが、水泳部でキャプテンをしている夏兄が今まで以上に魅力的に映った。それでも恋心を自覚した当時は今みたいにこれほどまでにドキドキしたことはなかった。それなのに。夏兄が急に男の人の顔なんかするから。
幼なじみという関係を壊したくないから想いを伝えるのは他に好きな人ができたらか、いつか思い出話になるその時だって決めてたのに。そんなことをされたらこの想いを抑えることなんてできない。

「わ、たしも……夏兄のことずっと好きだったよ。妹みたいに扱われることにもどかしさを感じたこともあったけど……でもその関係が壊れるのも嫌だから告白はしないつもりだった」
「正直、俺はなまえのことずっと妹のように見てた。自分の気持ちに気付いたのは多分ここ一年くらいだ」
「でも今日までの態度見る限りそんな感じしなかった」
「そりゃあ抑えてたからな。なまえが誕生日を迎えるまでは手出さない、お兄ちゃんに徹するって自分の中で決めてたし」

緩く微笑んで柔らかな手つきで頬を包んでいた指が顎を持ち上げる。吐息がかかりそうな至近距離に胸は高鳴るばかりだ。

「だから今からは心置きなく触れられる」

そのままゆっくりと唇を塞がれ、次第に体の力が抜けていく。夢心地でただ夏兄に身を任せるようにしてそれに応えた。
いつもそばにいて手を繋いだりおぶってもらったりしていたけど、この唇の柔らかさだけは今日初めて知る。熱の篭った吐息に恥ずかしくなるが、それ以上に満たされた気持ちでいっぱいだった。

「……小さい頃からしょっちゅう抱きついたりしてたのにいざその……男女の関係となるととてつもなく恥ずかしくなるね……」
「子供の頃のじゃれ合いとは訳が違うのはなまえもわかってるだろ?」
「わかってるけど……っ!」

そう言った矢先に体を支えられながらそのまま背中が床につく。天井のライトで逆光に晒された夏兄に『頼りになるお兄ちゃん』の面影はない。押し倒された状態で見る、いま目に映る夏兄は紛れもなく情欲を孕んだ男の人の表情だった。

「それはつまりキス以上のこともできる関係、ってことだ」
「ひゃっ、ん……」

首筋に唇が押し当てられ、骨ばった指はウエストラインをなぞるように這う。反射的に出てしまった初めて聞く自分の色っぽい悲鳴に耳を塞ぎたくなる気持ちを必死に抑えた。
触れられる場所すべてが熱くて、疼いてこうも素直に反応している。私もこうして大人の階段を昇っていくのだろうか、なんて頭の片隅で考える。夏兄に教え込まれたらきっと私は抵抗すらもできない。昔から夏兄の言うことだけは素直に聞いていたから。
せっかくのケーキも紅茶も今回ばかりは後回しになってしまいそうだ。この甘い空気を自ら台無しにするなんて愚かな真似はできないしする気もなかった。一人の女の子として私を見つめる夏兄に、今はただ深く溺れていたい。


2021/09/20
title:金星

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