other

それなら、それから、その時には

私も知らない『私』がいる。
それは緩やかに、されど確実に私の心を侵食していった。あの日からずっと、まるで毒されたみたいに隠岐のことが頭から離れないでいる。毎日隠岐のことばかり考えてしまう。
けれど今になって思えばあれはちゃんとした告白ではないような気がしていた。あまりにも曖昧な、それこそ人を試したりからかったりしてるような言い方。もしかしたら隠岐は私のことを弄んでいるのかもしれない。何度も、何度もそう思った。そう言い聞かせようとした。
けれどあの日触れられた感触と温もり。ただの仲間だと思っていた身近な異性のその言動は、どうしたって気にせずにはいられなかった。
あの日以来、何もないどころかむしろ隠岐は私をはっきりと異性として見ている。それが何となく察してしまうから。だから私はなんてことのないただの挨拶ですらぎこちなくなってしまうほどに、隠岐を完全なる異性として意識してしまっていた。
私も知らない『私』。人を好きになった『私』は言葉にするのも躊躇うほどひどく乙女であったらしい。自分にこんな一面があるというだけで恥ずかしくて堪らない。そして曖昧なあの一言だけでこうも心を乱されているのだから、自分で思ってる以上に色々と単純なのだと気付かされて大層複雑だ。

「で、なんで俺なん?こういう話やったら俺やなくてマリオとかもっと適任おるやろ」

ボーダー内の食堂にて。先輩はそう言って私の奢りで注文したうどんを豪快に啜った。何でも奢るから話を聞いて欲しいという私の頼みに対する対価がこのうどんだった。気だるそうにしながらも二つ返事でOKしてくれた先輩は何だかんだで面倒見がよく優しい人だ。
トリオン供給があるから食事は摂らなくても支障はないというが、とはいえ摂るに越したことはない。「やっぱ関東は味濃いわ」と言いつつも箸が止まることはないから余程うどんが好きらしい。そんなことをぼんやりと考えながら、私は今日も変わらず味気ない紙パックのジュースを啜る。

「まあそうなんですけど……隠岐のことをよく知っていて信頼できる異性と言ったらここは先輩しかいないと思って」

イコさんはこういう話には疎そうだし、海くんは悪気なく勢いでポロリと言っちゃいそうだし。その点、水上先輩はそこそこわかってくれそうだし口も堅いしアドバイスもくれそうだし。もちろん真織ちゃんにも女子同士よろしく相談や話を聞いてもらったりしている。いつもイコさんたちにイジられて頬を染めている真織ちゃんがここぞとばかりに楽しそうな顔で口角を上げるのだから、これは相当楽しんでいるに違いない。というのをひしひしと感じている。半分からかわれているような気もするが、それはそれで可愛いから全然いいんだけど。

「俺言うほど隠岐のこと知らんで?なんや秘密主義っぽいし色々謎やし。猫好きなことくらいしか知らんわ」
「ですよねー。それだけは唯一私も知ってますし」
「女のことなんか余計わからへんて」

そう。そうなのである。私が知りたい恋愛関連が何ひとつ掴めないのである。周りにさりげなく聞いてみても、事情を知ってる真織ちゃんに聞いてみてもこれと言った情報は掴めていない。好きなタイプくらいわかればあの言葉が本気かどうかくらいは見抜けただろうに。告白まがいなことをされ、これほどまでに意識している時点でもう私は何かに負けているような気がするのだけど。

「せやけどあいつモテるわりに女にはすぐ手ぇ出さへん感じするし、そう思ったらみょうじのことは少なからず本気なんちゃうかとは思うけど」

先輩の言う通りだ。隠岐はモテるが自分から声をかけたり軽々しく触れたりはしない。俗にいうチャラ男ではないのは見ていてわかる。なんというか意図せず女の子がきゅんとするようなことを自然としていると言ったほうがしっくり来るかもしれない。雨取ちゃんのことをカワイイと言ってたらしいけどそれは多分小動物みたいで可愛い、的な意味だと思っている。
だから余計わからないのだ。何の素振りもなく、なんてことない日に何を思ってあんなことを言ったのか。売り言葉に買い言葉……とは少し違う気もするし。あんな表情を向けられて、ただ単にからかっているだけだとしたらさすがに悪趣味がすぎるけど。でも不思議とそうじゃないと思えてしまうから、だからどうしていいかわからずこうして頭を悩ませている。

「やっぱりそうなりますかね……」
「そもそも何をそんなに悩む必要があるんやっちゅう話やけど。はっきりと言われてないのが引っかかるんか?」
「珍しいペアやなあ。何の話してたんです?」
「っ!?」

不意に割り込んできた声に心臓が大きく跳ねる。見るまでもない。この声のトーンは紛れもなく隠岐のものだから。しかし反射的に顔を向けてしまったせいで視線がかち合う。すぐに逸らしたけれど、隠岐は普段とさして変わらない様子だった。それが何だか妙に悔しくて腹が立つ。
あの日から二週間は経っているが特にこれと言って進展はない。というより何も起きないように私が隠岐を避けていると言ったほうが正しいかもしれない。真意が知りたいのは山々だけど、それ以上にその先を知るのがどうにも怖いからだ。

「あー……みょうじの愚痴聞いとったんや。ちょうどええし、隠岐変わってや。俺この後個人戦やったん忘れてたわ」
「え、ちょっと先輩!?」
「うどんごちそーさん」

いつの間にやら綺麗さっぱり完食した器を手に先輩はさっさと行ってしまった。ここでフェードアウトするとか酷すぎないか先輩。いきなり二人きりにされて何を話したらいいか全然わからない。今まではそんなことで悩むなんて考えられなかったのに。

「先輩隠す気ないなあ」

脳内であれこれ考えてる私をよそに、隠岐は水上先輩の背を見送りながらいつもと変わらない笑みを見せた。そして気にする様子もなく当たり前のように私の隣に座った。
近い。近い。呼吸やら体温やらが伝わってしまいそうなくらいに近い。至近距離に隠岐がいるだけであの日の光景が鮮明に蘇ってくる。ていうか先輩の嘘、秒で見抜かれてるんですけど!

「……せっかく先輩と話してたのに割り込んできて何の用?」
「そらみょうじちゃんがあからさまに避けるから」

図星をつかれて言葉に詰まる。いつも流すくせにどうしてこういう時ははっきり言うかなあ。そういうところが本当にムカつく。
そもそもその原因を作ったのが自分だという自覚はないのか。あれから毎日悩んで頭から離れなくて、ついには自分の気持ちを自覚させられて。それなのに隠岐はてんで変わらない。この先も同じように悶々とさせられるならいっそ冗談だったと笑い飛ばして欲しいくらいだ。まあそうなったらなったで強烈なパンチのひとつでも食らわせないとそれはそれで気が済まないけれど。
あの日以来、矛盾だらけの気持ちが毎日のように脳内でぶつかり合っている。

「だったらなんだって言うのよ」
「ん〜、脈ありなんかなあって」
「は、」

それってつまりどういうこと?隠岐のあれは冗談やからかいではなく本気であり本心だと?わからない。わからない。考えれば考えるほど隠岐という男のことがわからなくなっていく。
両手でパックジュースを包んでいた手をやんわりと解かれ、指を絡められる。あの時と似たシチュエーションに心が何かを期待する。
今度こそ隠岐の口から確固たる言葉が聞けたなら、きっと私は自分の気持ちを素直に認めざるをえない。だから今回は一層その手を振りほどけなかった。それは覚悟のようでもあった。

「顔真っ赤にして去ってったから何となくそうなんかなあとは思ったんやけどね」
「じゃああの日からずっと私の反応見て楽しんでたわけ?」
「それは誤解やって。ただちょっと嬉しなって、もう少しこのままでもええかなーって。女の子してるみょうじちゃんほんまに可愛らしいからなあ」

指を絡められたまま、今度は逆の手で髪を耳に掛けられる。微かに触れた隠岐の指が耳を掠めていって思わず変な声が出そうになった。熱い。耳も頬も体全体も。皮膚を覆うすべてが熱い。

「でも今日、先輩と親しげに話してるん見てさすがに焦ったわ。みょうじちゃんが先輩に押されてひょっこり落ちでもしたら敵わんしなあ」
「……だったら。だったらちゃんと言ってよ。そしたら私も、ちゃんと応えるから」

赤くなった顔を見られることも気にせず隠岐を見る。心臓が飛び出そうなほど緊張して、わけもわからず涙が出そうなほどだ。ただでさえ色々恥ずかしくて直視できないというのに、射抜くようにこれでもかと隠岐も私を見つめてくる。耐えられなくて今すぐにでも逃げ出したい。でもそこまで言われて最後まで聞かないわけにはいかなかった。

「ん〜、ええけどせやったらちゃんとしたシチュエーションの時にするわ。ここやと人もおるし味気ないやん?」
「そうやってまたはぐらかす気なんでしょ。その手には乗らない」

このタイミングで強気になったのが間違いだったと後悔した時にはもう遅かった。

「みょうじちゃんがどうしてもって言うんやったらええよ?周りに人がおる中で――」

刹那、纏う空気が変わるのを感じ取る。
すらりとした隠岐の指がリップクリームで潤った唇をゆっくりとなぞった。

「されてもええんやったらね?」


2021/08/15
title:金星

back
- ナノ -