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アンラッキーガールの誤算

※一般人夢主


先日、私の住む地域もついに梅雨入りしたとお天気キャスターのお姉さんが伝えていた。不安定な気圧の変化でこの時期だけ頭痛とお友達状態になるのは毎年恒例だ。おまけに湿気で髪はまとまらないし、じめっとした不快感が肌にまとわりつく。唯一お気に入りの色鮮やかなこの傘だけがどうにか梅雨の憂鬱な気分を軽減してくれていた。とはいえ軽減されるだけで根本的になくなるわけではないのだけど。
ただでさえいいことなんてひとつもないのに、世間の仕事終わりであろうサラリーマンやOLに混じって会社に向かっている人間は大げさに言って私くらいなものだろう。夜勤でもないのになぜこんな時間から出勤せねばならないのか。上司からの突然の呼び出しにノーと言える度量など私にはないからである。こういう時、入社したばかりの新人がいたら「今日予定入ってるんで無理っす」なんてドラマで観たような台詞を言ったりするんだろうな。社会人としてそれはどうかとも思うけれど、素直に思ったことを口にできるところは率直に羨ましい部分だ。良くも悪くも社会に染まっている自分が悲しい。

電車に揺られながら着くまでの間、適当にスマホをいじるのはもはや習慣だ。SNSで愚痴を吐いてみたり、ニュースサイトで情報収集したり、今朝忘れていたゲームにログインしたり。そろそろサンダルも履きたいし夏らしいペディキュアも塗らないとな。でも面倒くさいから今度でいいや。そんなことを思いながらもどんなデザインにしようかと思うだけで気分は上がり、色々と検索をしていたらいつの間にか会社の最寄り駅に着いていた。
スマホを鞄にしまい、駅を降りれば家を出た時より雨が酷くなっていた。つい大きなため息が出る。――と同時に大事な物を忘れたことに気付く。

「傘、電車の中に忘れた……!」

え、ちょっと待ってどうしよう。慌てて戻ろうと踵を返すもすぐに立ち止まる。すでに電車は発車した後だし、そもそももう改札を出てしまった。急いだところでどうにもならないのは目に見えている。
早々に諦め、改札の駅員さんにその旨を伝える方向に切り替える。曰く帰る頃には戻っていると思いますとのことだったからひとまずは安心だと胸を撫で下ろした。しかし会社までの道は近いとはいえそれなりに距離はあるし、さすがにこの人混みの中を走っていく勇気も元気もない。出勤前からすでに気分が疲れ切っていた。
改札口のすぐそばでぼんやりと空を見上げる。耳触りのよい雨音がリズム良く地面を鳴らす。眺めていたところでどうにもならないけど、こうしているだけでも気持ちが落ち着いた。早めに出てきたからか意外にも心に余裕があったらしい。

「もしかして傘忘れたの?」

はあーあ、と思いきり口に出したい気持ちを飲み込み、気持ちを切り替えるようにしてすぐそばの売店に行こうとすれば、不意に横から男性の声がした。誰に話しかけているんだろう。もしかして私?男性に目をやってから周りを見渡すも知人らしき人は見当たらず、私に声を掛けているのだと察した。

「あ、電車の中に置いてきてしまって……」
「端っこに座ってた?」
「はい」
「端っこだとさ、つい手すりのところに掛けてそのまま忘れちゃうよね〜」
「お恥ずかしながらまったくもってその通りで……」

まるで見透かされたかのように的確なそれに苦笑を浮かべる。しかしその人は「わかるわかる、俺もしょっちゅうやるから」とけらけらと笑っていた。その軽快なトーンにどんよりしていた気持ちが和らいだ。
長身できめ細かい白髪にサングラス。有名なモデルやアイドル、はたまた売れっ子俳優なのだろうか。テレビはよく見るほうだと思っているけれど覚えがない。こんな容姿をしていたら絶対に印象に残るはずなんだけどな。

「その格好だと今から会社とか?」
「ええ。急に呼ばれてしまって」
「あら、それはツイてないねぇ。そのうえ傘まで買う羽目になるのはツイてなさすぎるね、うん」

本当にその通りだ。自分のミスとはいえ、そもそも呼び出されなければわざわざ雨の日に外に出ることもなかったし、傘を忘れることもなかった。そう思うとたかが数百円の傘を買うことすら躊躇いたくなってしまうのが本音だった。思考までじめじめしているのはきっと梅雨だからに違いない。

「これ」
「?」
「あげる。良かったら使ってよ」
「え!?いえ、そんな……!」

そう言って彼は手にしていたそれを私に差し出した。驚きはしたものの、買わなくて済むことを考えたら正直素直に受け取りたい。けれど初対面の人の傘を借りるのは気が引けるし、何より一瞬でもラッキー、と思ってしまった自分が嫌だった。
売店で買えば済む話だし「申し訳ないので受け取れないです」と答えれば、男性は間髪入れずに「むしろ僕濡れないから平気」だなんて言った。

「それは『俺、雨避けられるんだぜ!』って言う小学生的な……?」
「んーまああながち間違ってないかもね。僕なんでもできちゃうからさ」

そう言って楽しそうに笑う姿はそれこそ子供みたいだった。雨なんてどんなに小降りでも避けられるわけないのに、彼が言うと本当にできそうだと思えるから不思議だ。もしかしたら本当にできるのかもしれない。
名前も職業も詳しいことは何ひとつ知らないけれど、この間のやりとりだけで少しだけ彼という人物を知れたような気がした。

「じゃあお言葉に甘えて使わせていただきます」
「あ、ついでにこれもあげる」

「手出して」と言われて言われた通りにすれば、手のひらに個包装された飴がころんと落ちる。予想内であり予想外のそれに思わず顔を見上げれば、瞬間彼を呼ぶ声らしき元気な声がどこからか聞こえてきた。私がその人物を探すより先に彼が「じゃあね」と背を向けて歩いて行ってしまった。

「あ、ありがとうございます!」

彼の後ろ姿を見つめながらお礼を言う。それから彼を呼んだ人物に目をやれば、制服を着た男の子二人と女の子が立っていた。近くに高校はいくつかあるけれどあんな制服を着た子たちは見たことがない。各々制服のデザインが違うし特殊な学校だったりするのだろうか。
雑踏の中で微かに「先生」という言葉が聞こえてきて、そこで初めて彼が教師であることを知った。そうか、先生だったんだ。それが何だか嬉しくて、妙に胸がほっこりしてつい顔が綻ぶ。
学校の先生ならもしかするとまた会えるかもしれない。その時は改めてちゃんとお礼をしよう。
飴を放り込んで傘を開く。
ビニール傘から覗く雨空の先には、きっときらめく虹が眠っている。


「あれ、先生傘は?」
「どっかに忘れて来ちゃった。恵入れて〜」
「嫌です。そこの売店で買ってください」
「てかアンタ女の人に声掛けてなかった?まさかナンパしてたんじゃないでしょうね」
「たまには雨の日も悪くないね〜。あ、カタツムリ発見ー!」
「あ、話逸らした」
「クロだな。これ絶対クロだな、サイテー!!」


2021/06/22
title:箱庭

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