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獣のようにはなれない夜

※成人設定
※伏黒視点


普段甘えられない人間ほど、リミッターが外れた時の勢いはまるで別人かと思わされるほどだ。一度理性を手放したらそれは瞬く間にダムのように放出される。
甘え方を知らない人間には方法の選択肢が二種類しかない。風邪で弱っている時か、アルコールで思考を鈍らせるか。なまえさんが後者となったのは幸か不幸か――この時の俺はまだ知らない。

なまえさんの一級昇格祝いという名の歓迎会など建前にしかすぎないことは誰もがわかっていた。なまえさんを差し置いてソフトドリンクで盛り上がり主役顔をする五条先生に、ハイペースでグラスを開けていく家入さん。次々と皿を空にする食欲旺盛な虎杖。仮にも主役であるなまえさんは端のテーブルで家入さんや釘崎、真希さんら女性メンバーとそれなりにこの場を満喫しているようだった。
各々が羽を伸ばし、他愛ない会話のあれそれが個室に木霊してから幾分が経った頃。なまえさんから少し離れたテーブルに座っていた俺は、汗をかききって味の薄くなったグラスを小刻みに減らしながらなまえさんをぼうっと見やった。酒豪と言われている家入さんの隣にいるせいか結構なペースで酒が進んでいる。五条先生レベルの下戸ではないとはいえ、さすがにあれほどまでの量を飲んでいるのは見たことがなく少し心配しながら様子を窺っていた。
あの感じだと二次会には行かずにタクシーを拾って帰るのがいいだろう。俺まで酔ったら元も子もない。この辺でお開きにしておくかと自分の中で区切りをつけて、ほとんど水に近いそれを一気に飲み干した。

その後、五条先生は場酔いするし家入さんはだいぶ出来上がっていたし伊地知さんは絡み酒をされていたせいで具合を悪くしたりと色々あり、結局二次会はなしとなった。
熱気に溢れた店内から一歩出れば、まるで別世界のようなしんと静まり返った藍色に包まれる。その場で解散になったので俺はなまえさんを送るべくタクシーを拾おうとしたが、なまえさんが「そんなに酔ってないから大丈夫」と頑なに言うものだから、酔い覚ましも兼ねて二人でゆっくり歩いて帰ることにした。

「めぐみくん〜」
「なんすか」
「ん〜?なんでもな〜い」

澄んだ空に星が瞬いている。それがしっかりと視認できるから、どうやらそれほど酔いは回ってなく――けれどもいつもよりかは浮ついた思考でそんなことを思っていれば、繋がれていた手にぎゅっと力が入る。俺ではなく、なまえさんの。なまえさんから手を繋いできたり、今のこれも普段のなまえさんに比べたらだいぶ陽気だ。それだけでもいつもと違うなまえさんに思考を持ってかれているのに、そのうえ体を密着させるように寄せられればどう足掻いてもそこに意識がいくのは避けられないことだった。ぬるく吹いた夜風が未だ治まりきっていない紅潮した頬の熱を攫っていく。

「やっぱ飲みすぎっすよ」
「確かにちょっと飲みすぎちゃったかも。でもこのふわふわするかんじ、なんかすごく気持ちいい」

だらしなく頬を緩めているなまえさんの隣で、努めて平静を装ってどうにか左半身への意識を逸らそうとする。しかしアルコールを摂取した互いの体温がいつもより高いせいで、酔いを覚ますどころか新たに煩悩が目覚め始めていた。
それから30分もしないうちに俺の自宅へと帰宅した。なまえさんの家はその先にあって少し距離があったし、状況が状況だったからこうしたまででそこに決して他意は……ない。
酔い覚ましにミネラルウォーターを差し出せば、なまえさんは「ありがとう」と言って呷った。なまえさんの隣に腰を下ろし、俺も同様に流し込む。冷蔵庫で長いこと陣取っていただけあって、思考を落ち着かせてくれるには充分な冷たさだった。
そんな音のない部屋で不意に漏れたなまえさんの吐息に俺は思わず手にしていたミネラルウォーターを落としそうになった。言わずもがな、いつになく色気を帯びていたからだ。いや、煩悩の消えていない思考が過剰にそう思わせたのかもしれない。無意識に喉が鳴るのを隠そうと必死だった。それなのにそんな俺を一層煽るかのようになまえさんは至近距離で、吐息混じりに囁く。

「めぐみくん……ちゅー、したい……」

こんななまえさんを見たら俺は何のために、誰のためにこの欲を抑えているのかわからなくなっていた。恋人にそんな風に頼まれて断る道理はない。しかし特殊な状況下においてならば話は別だ。なまえさんは明らかに酔っているし、そんな彼女を前にしてキスだけで終わらせられる自信はない。店を出た時からずっと、己の中にある敵と戦っている。だから水を飲ませたらすぐに寝かそうと思っていた。理性をなくして、ただ欲を満たすだけの男にならないように。

「……ダメです」
「なんで……?」
「何でもっす。明日の朝あんたが自己嫌悪に陥るところ、見たくないんで」

なんて、自分の欲を隠すための言い訳にすぎない。
「だから早く寝てください」とまるで子供に言い聞かせるようにしてベッドへ連れていこうとして立ち上がろうとした。が、絡められた腕からすり抜けることはなく、むしろ駄々をこねるみたいにぎゅっと力を加えられた。口をへの字に曲げて睨みつけるように、されどもどこか寂しげに、訴えるような視線が俺を射抜く。

「こういう時じゃないとできないこともあるんだよ、」

拘束していた腕が徐に首に回されたのと、なまえさんの言葉に乗せられたそれが触れたのを理解したのはほぼ同時だった。柔らかくも熱を持った唇がねっとりとまとわりついて、それからゆっくりと離れていく。なまえさんからキスされたことに意表をつかれて情けなくも呆然としてしまった。しかし二人の間に微かに漂う、なまえさんの飲んでいたであろう甘いカクテルの香りと色気。普段はなかなか見られないその姿に目眩がした。
この行為が果たしてどちらを意味するのか。呼吸を奪わんとしたところで動きを止め、考える。この時ばかりはなぜか冷静だった。
単に酔って甘えたくなっただけか、はたまた試されているのか。なまえさんと付き合い始めてからそれなりの月日が経っているが、まだ胸を張って全てを知り尽くしているとは言えなかった。もし前者ならもちろん応えたい。正直ほんの少しだけ複雑ではあるが。後者なら――普段は滅多に顔を出さない加虐心のようなものが顔を出してしまうかもしれない。とはいえ真面目ななまえさんがそんなあざとさを兼ね備えている器用なタイプにはとても見えないのだが。

「煽ってんすか」

我ながら意地悪な聞き方をしたと思った。しかし帰り道からあれだけのことを散々されているのだ。俺の中の加虐心が少しばかりかき立てられたのも事実だった。こんなことを思うのだから、自分で思っているよりも酔いが回っているのかもしれない。
しばしの沈黙のあとなまえさんはかぶりを振って遠慮がちに呟いた。

「……お酒の力があれば甘えられるかな、って思ったの……」

俯いていてもわかる、酔いから来るそれとは明らかに異なる紅色。その瞬間、今まで脳内を占めていた醜い煩悩は流れるように消え去った。目の前の彼女にただただ愛くるしさだけが募っていく。恋人からの頼みなら甘えも我儘もなんだって聞いてやるのに、酒の力でしか素直になれない彼女が愛おしくてたまらない。さっきまでの煩悩まみれの自分を殴ってやりたい。
膝の上で拳を握っていたなまえさんの手を取り、解くように重ね合わせる。

「すみません」
「え?」
「あー、いや、そうじゃなくて……俺、最低なこと思ってたんで」

不安そうにかち合う視線が少しだけ気まずくて一瞬逸らした。しかし主語のないそれに何となく察したらしいなまえさんは若干狼狽えながら「私の方こそ勘違いさせるようなこと言ってごめん」と必死になって謝っていた。多分今になって自分の言動に顔を覆いたくなるほどの羞恥に駆られているのだろう。
撫でるように頬に触れてキスを落とす。存分に甘えて、身を委ねていいんだという思いを込めて、なまえさんの全てを溶かすように優しく。最初こそ驚きで強ばったが、すぐに俺の吐息を受け入れた。

「酔い、覚めたからもうだいじょうぶ、です……」
「そこは嘘でも酔ったままもっと甘えるところなんじゃないんすか。……キス、したいんでしょ?」

「今日ならいくらでもしてあげますよ」耳元で囁けばなまえさんはふるりと肩を震わせた。上目遣いで恥ずかしそうに瞳を揺らす。否定の言葉はなかった。その姿を見てどこか満たされたような、でも少しだけ意地悪したくなる気持ちになる。もしかしたら酒に酔ってるのではなく、俺がなまえさんに酔わされているのかもしれない。


2021/03/27
title:moss

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