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あなたとおなじ名前の感情

互いの艶かしい吐息が白熱灯によって明るく照らされた部屋に小さく広がっていく。後頭部を押さえる無骨な手は繊細なくらい優しい手つきで、無条件に思考と体を溶かされる。
息継ぎの合間に開けたわずかな隙を逃すまいというように舌が口内を蹂躙していく。初めて経験する深く絡み合う唾液に体が火照って全身の力が抜けていくのがわかる。もたれ掛かるように甚爾さんの肩に置いた手にぎゅっと力が入った。

私は自分のことはわりと冷たい人間だと思っている。自分以外の誰がどうなろうと知ったこっちゃないと思ったりもする。とはいえ変に真面目な性格をしているせいもあり、内心ではそんなことを思いつつも完全に無視できない自分がいるのも事実であった。
だから見るからに柄の悪い彼にいきなり話しかけられた時は変に関わりたくなくて最初は無視をした。しかし来る日も来る日も彼はなぜか私に話しかけてきて、それが不気味で怖くて気持ち悪くて鬱陶しくて、一週間ほど経った時に痺れを切らして金輪際話しかけるなと一発ガツンと言ってやったらそれ以来ぱったりとなくなった。
それで清々するはずなのにあれだけしつこかった彼が急に消えたことがなぜか気に食わなくて気になって、いつの間にか私の方から彼を捜すようになった。まさか『押してダメなら引いてみろ』がこんなところで、まさか自分に効くとはいささか不本意でしかなかった。
結局彼はその後も近くで私の様子を見ていたらしくあっさりと見つかったのだが、文句のひとつでも言ってやろうかとするより先に封筒を差し出し「しばらくアンタの家に世話になるぜ」とあろうことか半ば強引に家に転がり込んだのだ。
封筒の中にはどこで稼いできたのかわからないお金が束で入っていた。こんなに持っているならわざわざよく知りもしない女に頼まずとも一人でどうとでもなりそうなものだろうに。
もうナンパなのか犯罪の片棒を担がされているのか詐欺なのか訳がわからなかった。しかしそんな怪しさ満載の男を拒絶しなかったのは恐らくこの時点ですでに彼に情が移り、まんまと手のひらの上で転がされていたからなのかもしれない。何しろこの男は顔が良かった。
とかく慣れとは恐ろしいもので、三ヶ月も一緒にいれば初対面の男でも特別な感情が芽生えるのもわけなかった。触れて触れ合う時が来るなんて、初めて会った時には想像すらできなかったというのに。

「っは……とうじさ、」

やっとのことで肺に酸素を流し込み、息も絶え絶えに名前を呼べば濡れた鋭い瞳が私を射抜く。しかし一瞬の隙をついてすぐにまた口を塞がれる。どうやら今日は呼吸する暇すら与えてくれないらしい。荒々しく強引さすら感じるのに私に触れる手だけはずっと優しくて、左手が素肌をまさぐることもなければ押し倒されて馬乗りになるようなこともない。それ以上の展開にはならない空気を感じながらも求めるようにキスをしてくる意図がわからなくて――熱に侵されながら頭の中ではやっぱり遊びでただの都合のいい女なんだろうな、などと思っていた。

言葉で表されていない曖昧な関係。初めてキスされた時に問いただしたかったけれど、どんな返答であれ知るのが怖くてこれは気の迷いだと言い聞かせた。それからも結局聞けないまま何度か名前のないキスをした。とはいえ私たちの間に明確な関係を示す言葉で括ってしまうのは何か違う気もしていた。それは私が甚爾さんを好きになってしまったから。
最初はこの人には私がいないとダメなんだと思って甲斐甲斐しく世話していたけど、本当はいつの間にか私が彼を必要としていたことにある時ふと気付いてしまったのだ。一日家でごろごろしていたかと思えばふらっとどこかへ行って帰って来ない日もあった。その度に心にぽっかりと穴が空いた気持ちになって、それを寂しいと思う度に自嘲していた。
でも、やっぱり。どういう意図で甚爾さんはこういうことをするのか。私が自分の恋心を自覚してしまった以上、真相を求める気持ちは膨れ上がるばかりだった。

私の溢れ出る熱をひとしきり奪った甚爾さんは表情こそ変わらないが、満足げに舌なめずりをして小さく息を吐いて私の首筋に顔を寄せた。

「ん……それ、くすぐったい、」
「あ?知らねぇ」

聞く耳を持たず、すんすんと匂いを嗅ぐように鼻息がかかる。意外と柔らかい黒髪が焦れったく肌を掠め無意識にその髪に触れれば、蓋をしていた感情が今にも溢れだしそうだった。

「……ね、私たちってどういう関係……?」
「興味のねぇ女を相手にするほど飢えてねーよ」
「何それ。質問の答えになってない」
「口の減らねぇ女だな」
「私は何も間違ったことは言ってないでしょ。どう考えても甚爾さんが悪い」

興味があるからといってそれが私の求めている答えとは限らない。遊びならそうだとはっきり言ってくれた方がまだ割り切れるのに。そうやって誤解を招く言動を繰り返し、期待を持たせる方がずっと苦しいということを彼はわかっているのだろうか。

「名のある関係を求めるなら俺のことなんか気にせずさっさと男でも作りゃいい。追い出すならそれが一番手っ取り早いだろ」
「私はそんなこと望んでない。甚爾さんにはここにいて欲しいって思ってるよ、」

外から見る自室に電気がついている。帰ってきたら気まぐれで簡単なご飯ができている。湯船にお湯が張ってある。洗濯かごに二人分の衣類が出ている。人を寄せ付けない眼差しをしている甚爾さんの無防備な寝顔。朝起きて一番に見る顔が甚爾さんであること。
私にとってそんな当たり前の毎日を彩る甚爾さんの存在が、その何もかもが、かけがえのないものなのだ。むしろ出ていくと言われたら私は必死で引き止めるだろう。もし本当にそうなったら実際は強がってできないかもしれないけれど。

「だったら何の心配もいらねぇよ。お前に出て行けと言われねぇ限り俺から出ていく気はない」

顎を掬われて、さっきとはまるで違う触れるだけのキスが落とされる。そこから伝わるのは私と同じ気持ちでもあり、私が求めている言葉以上のようなものな気さえして。それだけで今はいいと思えた。
逞しい背中に腕を回して厚い胸板に顔を寄せる。微かに速い心音が愛おしくて仕方なかった。


2021/02/27
title:金星

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