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深夜のパンケーキ

杏色に照らされた照明、存在感のある観葉植物、上質なキングサイズのベッド、セレブによくある謎のお高いオブジェ。高級ホテルかと見紛うほどのそれらに囲まれている私はきっと浮いているに違いない。唯一馴染んでいると言えるのはいま私が着ている、彼が普段身につけているであろうこの部屋着くらいだ。しかしそれも有名なブランド物である。今の私の鼓動を加速させるには充分すぎるくらいてんこ盛りであった。
ここに足を踏み入れてから今の今までずっとそわそわしていて、過度の緊張で口から何かが出そうなくらいには今のこの状況に気が気でない。いつまでも立ちっぱなしでいるのも不自然だしどうするべきかと考えに考えた結果、とりあえずベッドの足元の隅に浅く腰掛けた。些細な沈みすらも跳ねつけるそれに私の心臓もさらに跳ね上がる。

五条さんと付き合い始めてからデートをしたことは何回かあった。けれど家に呼ばれたことはなかった。だから居酒屋で食事を済ませたあとに「二軒目行く?」くらいのノリで「今から僕んち来る?」と言われた時は正直なんて答えたらいいか迷った。迷いなく即答するのも期待してましたって感じでどうかとも思うし、かといって明日休みなのに断るのもそれはそれで変な気もするし。
でも本音を言えばついにこの日が来たか!と心の中で覚悟を決めていたりもしていた。まさに今日であろうこの日のために上下お揃いのお気に入りの下着――いわゆる勝負下着というものを身につけていて良かったと内心ホッとしてしまった自分がちょっと恥ずかしい。でもヨレた下着を見られるよりは断然いい。
そんなこんなで結局遠慮がちに頷いて今に至る。ひとまず気持ちを落ち着かせるために深呼吸をすれば――突如ドアの開閉音が響いて自然と拳に力が入る。

「……なんか童貞捨てる前の男みたいだな」
「どっ……!?」

ムードの欠片もない一言を言った本人は楽しそうに口角を上げながら、わずかに滴っている髪を乱雑に拭きベッドへと放り投げる。そんな小さな音にさえ反応してしまうくらいにはまともな返しができる余裕はなかった。
すぐに肩が触れる距離に五条さんが腰掛ける。湯上がりで熱を纏ったその体から甘美な匂いを揺らして私を包み込む。自分から五条さんと同じ匂いがするというだけでさらに鼓動は忙しない。

「ハハッ、緊張しすぎ。別に今すぐ取って食おうだなんて思ってないから。はい、リラックス〜」
「わっ」

肩を押されて背中が沈む。照らされた口元は弧を描いていた。それが単なる微笑みなのか何かを企んでいる笑みなのかはわからない。むしろわからないでいた方が私自身のためにもなる気がする。だってもう半分見透かされているようなものだから。

「こんなの余計に無理です」
「じゃあ今すぐ食べていい?」
「そういうことじゃないです!」

隙あらばからかおうとするのもほどほどにして欲しい。こんなことばかりされてたら本当に身が持たない。せっかくの夜だけどここはもう寝た方がいい。寝よう。私のために。

「あー、でもなまえに僕の服着せたのは失敗だったかも」
「なんでですか?」
「だって超そそるんだもん。いざ見るとやばいね、彼シャツ」

隣で腕を後ろに投げ出し、腰掛けていた五条さんが体を反転させて覆い被さってくる。ふいに近付いた距離に思わず目を見開く。あ、これは寝られないかもしれない。
薄明かりでもわかる霜のようなまつ毛に透き通った瞳と肌。手の込んだケアなどしていないのに潤った唇。息が止まりそうになるのは緊張だけではないらしい。見惚れるほど顔がいいというのも困ったものだ。よく男性が思わずキスしたくなったなどと言ったりするけれど、まさしくこういうことなのだろうか。

「なーに、僕の顔じっと見て」
「女の子が嫉妬するくらい艶やかな唇だなぁと思って」
「へぇ〜。もしかして煽ってるつもり?随分と余裕じゃん」
「べ、別にそんなんじゃないです!ほんとに羨ましいなって思っただけです」
「ふーん」

興味なさそうな返事をしているけれど私を見る五条さんの顔はいたずらっ子のそれだ。見惚れてたばかりに変なことを口走った自分が恨めしい。スイッチが入ってしまえば五条さんは絶対に逃がしてはくれない。
無防備に投げ出されていた腕があれよあれよと頭上で押さえつけられる。片手で押さえているにもかかわらず少し動かしただけではびくともしない。緩く開いている襟ぐりからやんわりとした空気が鎖骨を撫でていく。

「ねぇなまえ、僕に何して欲しい?おねだりするように言ってみな」

無色のリップクリームだけを纏った唇を焦らすように指の腹で撫でられる。それだけで背筋が震えて興奮に似た何かが全身を駆け巡っていく。
その言い方は不意打ちでされるより、強引にされるより、私に言わせるという五条さんの意地の悪さが凝縮されている一言だった。私が自分からそういうことを言えないタイプだとわかっているからなお悪い。本当は私だって五条さんのことを翻弄したいと密かに思っていたりする。ただ今はまだ返り討ちにされる未来しか見えないから反撃せずにいるだけで。

「……キス、して欲しい……です」
「誰に?」

勇気を振り絞って言ったそれは蚊の鳴くような声だった。薄明かりとはいえ、染まった頬を見られたくはなくて目を散らすことしかできない。しかし食い気味に聞かれたそれにまた言葉に詰まる。相手がすでにわかりきっていて追撃されるのはこんなにも悶々とするものなのか。いっそ何も言わずに口を塞いでくれた方がよっぽど心臓は楽だろう。

「五条さん……悟くんに」
「からの?」
「……悟くんに、キスして欲しいの」

これは羞恥プレイの一種なのか。私にとってはもはやハラスメントと相違ない気がしているけれど。
涙目になっている私にそれなりに満足したのか五条さんは「よくできました」と言って口づけた。しばらくして離れて安堵したのも束の間、吐息がかかる距離で視線が交わる。私を映すその瞳には欲望という名の熱が込められていて、近づいてきたそれに私はまた目を閉じる。あれだけ私に意地悪しておいて、噛み付くように求めるように深く深く。舌をねじ込まれて呼吸もままならない。ただ求められるがままに応えることで精一杯だ。
押えられていた手はいつの間にか解かれていて、五条さんの指先が強く絡まる。同じように強く握り返せば二人の間には熱を帯びた息遣いだけが残った。

「キス、いつまで経っても上手くなんないね」
「散々貪っておいてその言い草はさすがに傷付きます」

上手くないのは認めるけれども、あれだけ絡み合ったキスをしておいてそれはないだろう。ムッとした顔が思ったよりも出ていたのか、五条さんは「ごめんごめん」と笑いながらあやすように髪を撫でる。

「なまえは下手なままでいいよ。僕に必死になって応える姿はマジで興奮するくらい可愛いから。ま、積極的ななまえもいつかは見てみたいけどね」
「そういうこと恥ずかしげもなく言うのほんとにやめてください……!」
「男はいつだって優位に立っていたい生き物なんだよ。だからそうやって恥じらってるくらいが僕も気分がいい」
「んっ……」

首筋に唇を寄せ、幾度となく小さな音を立てながら熱くなっている肌を吸い尽くす。時折触れる吐息と儚げな白がくすぐったくて身を捩れば、「逃げんなよ」と少し不機嫌そうに囁いた。不意打ちで口調が荒くなるのは胸が鳴り止まなくなるからやめて欲しいのにな。

「お楽しみの夜はこれからだよ、なまえ。ゆっくり時間をかけてその体に教えてあげるから」
「……優しくしてください」
「それはなまえ次第」
「意地悪しないで……」

今日くらいは素直に優しくして欲しいよ。
言いたかった言葉はすぐに甘い吐息に飲み込まれてしまった。


2021/01/08
title:moss

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