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僕の鼓動を食い破る熱

伊地知は頭を悩ませていた。
術師という職業柄なのか、性格の問題なのか、はたまた単純に自分に対する当たりが強いだけなのか。どうにも強さを手にしている人間ほど傍若無人な傾向があるらしい。理由がどうあれ、どちらにしろ伊地知の悩みの種がひとつ増えることに変わりはなかった。

都内某所にて発生した呪霊を無事祓ったとの連絡を受け、伊地知は現場へと車を走らせていた。夜も更け、道路を走る車は数える程しかない。定刻通り――むしろ早く着きそうだと伊地知は車内で小さく胸を撫で下ろした。

「遅い」
「すみませんでしたー!」

しかし到着し開口一番に放たれた台詞に伊地知は反射的に頭を下げて謝罪の言葉を口にした。もちろん伊地知に非はなく、なまえによるただの理不尽だった。
不機嫌そうに伊地知を見るなまえの服は先の戦闘で汚れきっている。疲弊した顔で早く帰ってシャワーを浴びたいと漏らすなまえを労うように伊地知はお疲れさまでしたと声を掛ける。

「今日はもう遅いですし後処理はこちらでやっておくのでゆっくり休んでください」
「伊地知は働きすぎ」
「これが私の仕事ですから」
「真面目だなぁ。面白みのない人間だって言われない?」
「痛いところを突かないでください……」

車に向かって歩くなまえの後を追い、助手席のドアを開ける。高専からの付き合いで学年は伊地知のひとつ下だが、気の弱い伊地知と気の強いなまえ。正反対の二人によるその光景はよくあるお嬢様と執事のようだった。

「みょうじさん、これを」
「ん?」

シートベルトを締め、発進させる前に伊地知は胸ポケットからハンカチを取り出しなまえに差し出す。夜は街灯があったにしても顔の汚れにはなかなか気付きにくい。しかしそういう細かいところを見逃さない伊地知の観察眼はさすがといったところだった。
なまえは差し出されたハンカチをしばし黙って見つめる。まるで受け取る気配のないなまえを見た伊地知はそこでハッとして、先程一度軽く額を拭って使用したことを思い出した。まずい、これは怒られる。

「あッ、これはダメでした!」

私にお前が使ったものを使わせる気かという無言の圧力だったのか、と冷や汗をだらだらと流しながら慌てて手を引こうとした。変に察しが良いのも困ったものだ。しかし力なく腕を掴まれて伊地知は思わず動きを止める。

「拭いて」
「でもこれは私がさっき使ったものなので……!」
「いいから」

「自分じゃどこが汚れてるかなんてわかんないし」と漏らすなまえにどういう意味で言っているのか、いつものようにからかわれているのか、本当に拭いて仕打ちを受けないか――伊地知は思考をフル回転させていた。だが心なしかよそよそしいなまえを見て猜疑心はすぐに消え去った。少なくとも殴られることはなさそうだ。もしかしたら本当に疲れているだけなのかもしれない。
しかしそれとは別に問題があった。それは相手が馴染みのある後輩であり女性であるということだった。本人からの頼みとはいえ布越しで触れるのもさすがにどうなのか。あとでセクハラなどと言われないだろうか。真面目な伊地知は再度思考を巡らせる。これが五条であったなら自分でやれと言っているところだが、相手が相手なだけにいろんな意味で下手な真似はできない。うんうんと唸る伊地知を見ながらなまえは小さくため息を吐いた。

「私は伊地知にして欲しいから言ってるの。……言ってる意味、わかんない?」
「それは、その……つまり」


なまえは戸惑っていた。
昔から外見で人を好きになる自覚はあった。そのせいでろくな目に合わなかったこともないとは言いきれないが、それはそれで過去の思い出としては悪くなかった。
五条の素顔を見た時はその美しさに思わず息を飲んだが、学生の頃からまるで成長のない小学生男子のような男についぞ恋愛感情を抱くことはなかった。術師の中では一番まともで顔も性格も申し分ないと言える七海にさえもそのような感情を抱くことはなかった。
伊地知に対して惹かれている自分に気付いたのはごく最近だった。それからというものなまえは芽生えた感情にずっと困惑していた。

学生時代から変わらない冴えない表情に痩せこけた頬。やつれた顔は実年齢よりだいぶ年を重ねているように見えた。どちらかと言えば華やかな部類に入るなまえからしたら、伊地知は地味以外の印象がなかった。しかし補助監督として術師のなまえをサポートしたり、事務仕事の書類作成をしたり。そばで色々なことを知っていくうちに、気付けばそんな伊地知を好きになっていた。
いつもまっすぐでひたむきで、真面目に仕事に取り組む姿勢は誰よりも輝いて見えた。そして何より伊地知の隣は居心地が良かった。


「……下心だよ。言わせんな」

なまえはハンカチを握っていた反対の手を取り自分の頬にそっと引き寄せる。伊地知の手がびくりと大げさに強ばった。今まで見たことのないなまえの恥じらいながらも積極的な態度に伊地知は心音をあっという間に乱され、なまえにも気付かれてしまうのではないかというほど顔を赤らめていた。
なまえの頬が熱を持っているのか伊地知の手のひらが熱いのか。答えを出す前に伊地知は慌てて腕を引き、素早く正面を向いて車を発進させた。
ハンドルを握る手も背筋もガチガチだ。今まで何もなかったところに思いもよらない告白を受けたのだ。気が動転しないわけがなかった。

「何か言ってよ。それともそれが答え?」
「決してそういうわけでは!単純に驚いてしまって……その、整理が追いついてないと言いますか」
「じゃあとりあえず伊地知んちへゴー」
「え!?なぜ私の家なんです……!?」
「シャワー浴びたいから」

淡々と的外れなことを述べるなまえにこれもまた何かの策略なのかと勘ぐってしまう。確かにここからだと高専よりは近いがそういう問題ではない。この流れでこのままなまえの言う通りにしてしまったら、それこそもう逃げも隠れもできない。

「逃げようだなんて思わないでよね」

ああ、もうダメだ。確信的な一言で伊地知はすべてを悟る。もう残された道はひとつしかない。
これから何かが起きる長い夜に、伊地知は心の中で鎮まれ鎮まれと強く唱えながら心臓を握りつぶした。


2020/12/18
title:まばたき

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