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あな美しき歪みの坤輿

あの日、彼が忽然と姿を消してから気付けば2年の月日が経っていた。

最後に見た彼は傷だらけで、血だらけで。今にも息絶えてしまいそうだった。そんな彼を見て心配にならないはずがない。あれからすぐに必死で彼を捜した。けれど闇雲に捜しても手がかりなど掴めるわけもなく。途方に暮れ、いつしか彼を捜すことを断念した。
けれど2年が経ってもその思いを断ち切れず、未だに前に進めずにいる自分がいる。本当はわかっていた。無理矢理言い聞かせていただけで、心の奥底では会いたいという想いがずっと燻っていたことに。
会いたい、会いたい――あなたは今、どこで何をしているの。

あれから江戸は徐々にではあるが活気を取り戻しつつあった。しかし目に映る風景はどこか味気ない。やはり彼がいなければ、私にとってこんな世界は何の意味も成さない。あの人は私の生きる希望だった。
裏路地から空を見上げれば、雲一つない快晴の空がビルの隙間から広がっている。それが何だかやけに眩しくて笠を深く被ろうとした、その時。

「え……」

見間違えるはずがない。当時とは違えどあの着こなし、笠からのぞく紫がかった艶のある髪。ずっとずっと見てきた背中。何より纏う雰囲気が彼だということを強く証明していた。
喉が熱い。呼吸すらもままならない。恋焦がれ、慕い続けたその人。私は彼にどれほど会いたかったのか。その想いの強さを理解するには止めどなく溢れ出る涙だけで充分だった。

「晋助様、」

再び会えた喜びと生きていたことに安堵したからなのか。きっと今の私は矛盾した表情をしているに違いない。自分でもまだ気持ちの整理がついていないのだから。
涙で視界が滲む。彼は今どんな表情をしている?流れるそれを指で拭って真っ直ぐに見つめる。心なしか顔色があまり良くないのは気のせいだろうか。いや、目の下の隈らしきもの……もしかして、あれから――

「2年ぶりだってェのになんてツラしてやがる」

笠を上げ、表情が顕になる。一瞬時が止まったような感覚に陥った。
あの頃と変わらない、鋭く射抜くような眼差し。耳を震わす低い声。けれど同時に不思議と柔らかくも見えて、それがまた私の感情をかき乱していく。

「誰のせいだと、思ってっ……」
「……そうだな。違いねェ」

手を伸ばせば届く距離まで近づいて来る。刹那、未だ止まることのない雫を止めるように彼の手が頬に触れた。指の腹で目尻を拭う手つきはひどく優しく、温かい。
世界を壊すと嘯いていた我らが総督が。己が貫くもののために剣を振るってきたそれと同じとは思えないほどに、まるで割れ物に触れるかのような手つきだった。
あれからどこで何をしていたのか、別れの言葉もなしに消えてしまったのか、聞きたいこと、言いたいことはたくさんある。けれど口を開こうとしても喉が詰まって言葉が出てこない。ただただ胸がぎゅっと締め付けられるだけだった。

「最後に見るのが女の泣きっ面なんざ、悪夢よりも夢見が悪かろうよ」
「最後って、なにを」
「俺にはまだやらなきゃならねェことが残ってる。そのためにここへ戻って来た。後戻りはおろか、振り返ることすら許されねェところまで来ちまったのさ」
「……振り返った先に私やまた子ちゃん、武市さんがいてもその気持ちは変わることはないのですか」

なんて、未練がましく聞いてしまったけど。本当は知っていた。たとえ私たちが止めようと、共について行くと言おうと彼の気持ちは変わらないことを。私たちを仲間だと思ってくれていても、結局一人で行ってしまうことを。
あれだけ溢れ出ていた涙はもう止まっていた。

「……俺ァもうどのみち長くはねェ。今まで敵も味方も数えきれねェ屍を超えてここまできた。そんな奴がろくな死に方しねェのはわかってらァ。だからせめてこの命が尽きるまではてめェのやりてェようにやるしかねェだろ」

指先から伝わる熱はやはり優しく、温かい。しかし目に映る彼の眼差しは強く、その先の未来に向けられていた。そんな彼を見て「行かないで」「私も一緒について行く」なんて言えるほど私は空気の読めない人間でもなければ、晋助様のことを理解していないわけじゃない。
彼に導かれ、背中を追い続け、共に戦ってきた。我らが鬼兵隊の高杉晋助がそう言うのなら。私は何も言わずに彼を見送るだけだ。もしかしたらあの時から私が入り込む隙間などなかったのかもしれない。

「だからこれが今生の別れだ、なまえ」

そう言って涙を拭った手で頬に手を添える。

「でもさよならは言いませんよ。しぶとい人ほど良くも悪くも生き長らえたりするって言うじゃないですか。……それに、生きていればきっとまた会える」

今の私はうまく笑えているだろうか。

「それがいつになるかなんてわからない。もしかしたら今日が本当に最後のお別れかもしれない。でももし再び会うことが出来たなら――その時は今度こそ、生きるも死ぬもあなたと共にさせて下さい」

もとよりこの命は彼に出会った日から捧げていたのだ。そんな人と共に死ねるのなら、その行き先がたとえ地獄であろうと本望だ。

「亡霊とくたばるだけの残生なんざ、まともな死に方は出来ねェだろうよ」
「晋助様について行くと決めた日から覚悟は出来ていました。それに人はみな、いつかは命尽きる生き物です。なら最期まで、最後だけは派手に――それが私たちらしい」
「あァ、違いねェ」

悪ガキのような不敵な笑みを浮かべて静かにこぼす。そしてその唇でゆっくりと私のそれを塞いだ。甘くもない、胸がときめくような想いとは程遠い縛り付けるような、まるで呪いのような口づけ。
最初で最後のキスは剣に染み付いた数多の血が滲んだような、血腥い鉄の味がするようだった。


2018/10/07
title:箱庭

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