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溺れる12時間

京治くんと初めてキスを交わしたのは付き合い始めて二回目のデートの帰り際だった。
二回目は京治くんの家でまったりしていて自然とそういう雰囲気になった時。そして三回目は共に夜を過ごした時。そこで長らく薄々感じていた疑問は確信へと変わった。
京治くんはキスをする時は必ず眼鏡を外すのだと。

週刊少年誌ヴァーイの編集として配属された彼といわゆる恋人関係になったのは出会いから一年が過ぎた頃だった。それからさらに数ヶ月が経ったが、お互い多忙の日々でなかなかプライベートでゆっくりする時間が取れない。それどころか編集部で顔を合わせないこともざらにあるし、会えても挨拶を交わすだけの日も多かった。
だからキスも行為中を除けば片手で足りるくらいしかしていないけれど、別にそれに対して不満を感じているわけではない。むしろ京治くんは充分すぎるくらいに私を気遣ってくれて、忙しい合間を縫っては一言だけでも必ずメッセージを送ってくれた。
多忙なのはお互い様なのに京治くんは決してそれを口には出さない。それもこれもすべては京治くんの真面目な性格ゆえなのだろう。私はそんな彼の何事も全力で取り組む姿勢が好きだった。
時には後輩として、時には恋人として。京治くんの存在は私に活力と彩りをもたらしてくれる。彼にとって、私もそうであれたらいいんだけど。


「戻りましたー。……あ、赤葦くん。生きてる……?」
「……はい、何とか……」

打ち合わせを終えすっかり日も沈んだ頃。編集部へと顔を出せば、デスクに積み重なった資料の隙間から見るからに疲れきった京治くんの姿が目に入った。腕をぶら下げ、眼鏡を掛けたままデスクに頬をくっつけている姿はさながら屍のようだが、彼にとって山場を超えた表れでもあった。
紡ぐ声からも疲労が如実に伝わり毎週心配が尽きない。しかし普段しっかりしている京治くんのくたびれた姿は逆に貴重だったりもする。過酷な日々でそんな一面が見られてちょっと嬉しい、なんてさすがに面と向かって言うのは憚られるから心の中だけに留めておくけれど。

「先生の原稿、今週も何とか間に合ったみたいだね。本当にお疲れさま」
「今回こそ間に合わないかと思いました……疲れた……」

むくりと上体を起こした京治くんの髪は普段よりも乱れ、眼鏡の下にはうっすらと隈が出来ている。昨日今日だけではない蓄積された心身の疲労の表れに、長身でいつもは逞しく見えるその身体も心做しかいくらか縮んで見えた。
学生時代はバレー部に所属していたみたいだし体力には充分な自信があると思っていたが、ともあれそれとはまた違った意味でこの仕事は体力を削られる。元々京治くんは文芸希望だと言っていたから余計に大変な思いをしているかもしれない。それでも与えられた仕事はきっちりとこなすし、私なんかよりもずっと作家に対しての飴と鞭の使い方が上手い。結構この仕事向いてるんじゃないかと思うくらい。

「先生、原稿いつもギリギリだもんねぇ。私も新人の頃少しだけ担当したけどまーじでキツかったもん」

これは言わば新人への洗礼なのだろうか。しかし早いうちに大変なことを経験しておけばこれ以上怖いものはないと自信がつくのも事実だ。
毎週どころか毎日がデッドオアアライブな現場で日々寿命が縮まっている気がしてならないけど。作家が逃げ出すという最大かつ最凶の死のイベントを経験してないだけまだマシなのかもしれない。

「コミックスの打ち合わせもしなきゃいけないしまだやることは山積みですけど、ひとまず今日は泊まり込み回避です」

椅子に背を預けた京治くんが大きなため息を吐きながら眼鏡を外して眉間を押さえる。

「…………」

その行動に他意はない。なんてことのないただのひとつの動作にすぎない。何より京治くんは疲れているのだ。
しかし京治くんの眼鏡を外す仕草を見る度に、私の胸の奥にはいつしか不純な期待と緊張が芽生えるようになってしまった。仮にもまだ勤務中であるというのに、二人きりだとどうにも邪念で思考が埋まっていけない。振り払うようにぶんぶんと首を振る。今こそ私が全力で労ってあげなきゃいけないのに。

「なまえさん?どうかしましたか」
「へっ!?い、いや、なんでもないです!」
「なんで敬語なんですか」

あからさまに裏返った声にしどろもどろになる私を見て京治くんはフッと柔らかな笑みを零す。ああ、これは完全に見抜かれてしまっている。
京治くんは付き合ってからたまに、本当にたまーにそうやってからかうような笑みを見せるようになった。思ったことをすべて口に出すような人ではないから、彼の些細な仕草ひとつだけで私はその奥深くまでを読み取ろうとしてしまう。もっともっと、知りたいから。

「そういう赤葦くんだって付き合ってからもちょいちょい敬語じゃん」

いくらか熱を持った頬に意識を持っていかれながら軽く口を尖らせる。咄嗟に反論したものの、京治くんにはまるで効いていないのはわかりきっていた。そもそも京治くんが敬語なのは今に始まったことじゃないし、勤務中なら尚更だ。彼はそういうところはきっちりしている。それもこれも学生時代に築いた上下関係の結果なのだろうか。
それどころかその微笑みは何だか楽しんですらいる気がした。疲れすぎてハイになっているのか。だとしたら相当だ。今すぐ寝かせてあげなくては。――なんて、思ってたのに。

「……何考えてたの?」

頬杖をつき目尻を下げてこちらを見上げる姿に不意打ちを食らってしまい、思わず喉がひゅっと鳴った。
その柔らかな声音は確実に理解っているそれそのものだ。

「っ、別になにも」

素直に答えるわけにもいかず、その眼差しから逃げるように視線を逸らせば徐に京治くんが立ち上がった。影を覆う迫力に圧倒されつつ身構えながらそっと見上げると、さっきまでの瀕死状態の彼は一体どこへやら。

「何か、期待した?」

一瞬にして私たちを包む空気が少女漫画へと様変わりする。心地の良い透き通った甘美な声で耳打ちされ、思わずぞくりと肩が震えた。
今ここで素直に認めたら京治くんはどうするつもりなんだろう。逆に京治くんは何を期待してる?

「し、してないってば」
「なまえさんって結構わかりやすいですよね」

――そういうところ、好きです。なんて、まるで呼吸するかのようにさらりと述べる。
翻弄された私は何も言えずに、眼鏡を掛け直していそいそと帰り支度を始める京治くんをただ黙って見つめていた。
京治くんは表情の変化はあまりないが決して感情に乏しいわけじゃない。だから純粋に感じたことをそのまま言葉に乗せたことはわかっていた。でも、だからこそ、京治くんが発する音はこの上なく私の心を響かせ、揺さぶり、貫いていく。

「今日なまえさん家泊まっていっても大丈夫ですか?」
「へっ!?う、うん。いいよ」
「ありがとうございます。じゃあ一緒に帰りましょう。……なまえさんももう終わりですよね」
「うん。あ、待って、ちょっとデスク片付けていい?そのまま出てきちゃったから散らかったままで」

帰り支度を終えた京治くんを待たせてはいけないと急いで自身のデスクに駆け寄って簡単に整理する。「ゆっくりでいいですよ」と気遣う声が背後から近づいてきて、デスクに置きっぱなしになっていた空き缶を捨てようと手に取った時。ふと京治くんの手が重なった。
特別小さくもない私の手すらも包み込んでしまえるほどに大きな手。男性らしく骨張っているけどどこか繊細さがあり、安らげるあたたかさを感じさせ、なおかつ胸を高鳴らせる熱を持つ。私のあらゆる部分に優しく触れるその手に心臓は休むことを知らない。

「赤葦くん……?」
「でもここじゃなまえさんが期待してることできないから、早く帰りたいかな」

淡いささやきが肌を緩く撫でていく。
私たちの視線の先には天井に防犯カメラが設置されている。やましいことは何もしていないとはいえ、今のこの状況が記録に残るのも結構恥ずかしい。
労わってあげたい。癒してあげたい。何よりしっかり寝て欲しい。そう思うのは紛れもない本心なのに、欲張りで自分勝手な私は同じ分だけ欲を膨らませてしまう。長く見つめ合ってしまえば私はもう――。

「行きましょうか」

京治くんが空き缶を攫い、私の腕を引いてゆっくりと歩みを進める。疲れているはずなのにその足取りはどこか軽やかで。
見抜かれているなら、京治くんも同じ想いなら――今夜くらいは存分に期待、してもいいよね?


2024/02/25
title:金星

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