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愛されちゃって、ハニー

疲れた。眠い。お腹空いた。
三拍子揃った敵と格闘しながら車へと乗り込む。
朝日の昇りがめっきり早くなった真夏の朝は、すでに蒸し暑さを感じるほどに気温が高い。
駅周辺の信号待ちをしながら交差点で行き交う人々をぼんやりと眺めれば、スーツを着たサラリーマンやOL、学生たちは皆浮かない顔をしていた。昼夜逆転の生活にも慣れたものだが、朝早くから満員電車に乗る世の人々もなかなか大変だろうなぁと思う。
帰ったらとりあえずシャワーを浴びて腹を満たそうか。いや、今すぐにでもベッドにダイブしたい。いやいやシャワーが最優先だ。
そんなことを考えているうちにあっという間に家の前に着いていた。玄関の鍵を開ければ、倍近くあるサイズの靴が目に飛び込んでくる。そんな相手は一人しかいない。

「おっかえり〜」

リビングの扉を開ければソファーでながーい足を組みながら軽快な口調でひらひらと手を振る悟がいた。相変わらず足長いな。
それからテーブルに視線をやれば、グラスとおやつ用に常備してある私のお菓子の袋が散乱していた。寛ぎすぎだろ。別にいいけど。

「ただいま。来るなら連絡くらいしてよ」
「連絡したらサプライズになんないじゃん」
「朝からサプライズとか反応に困るから求めてない」

そう言いながら荷物をその場に置いて一目散に冷蔵庫へと向かう。暑くて喉が渇いて仕方ない。グラスに氷を入れてお茶を取り出そうとすると、見慣れないお店の箱が目に止まった。
私が気付いたのと同時に「今日誕生日でしょ?」と悟に言われて、言われてみればそうだったなと今日が誕生日であることを思い出した。

「わざわざ朝から買ってきてくれたの?」
「夜勤明けで糖分欲してるかなーと思って」

心地の良い声とその優しさに胸がきゅうとなる。誕生日を覚えてくれてたことも、朝から会いに来てくれたことも全部が嬉しい。サプライズなんて求めてないなんて言ってしまったが、前言撤回。正直ケーキだけですでにめちゃくちゃ嬉しい。おまけに悟の姿を見ただけで一日の疲れなんてあっという間に吹っ飛んでしまうのだから、これは素直に認めざるを得ない。

「ありがとう。嬉しい」
「どれにしようか迷って結局決められなくて5個も買っちゃった」
「いや、それは買いすぎ……」

さすが金持ちはやることが違うな。一人で一日に食べられる量というものを考えないんだろうか。
なんて言いつつもやはり嬉しいことに変わりはない。仮眠明けにいただこう。

「なまえ」

グラスにお茶を注ぎ、ゴクゴクと喉を潤していると不意に悟に名前を呼ばれた。

「なに?」

手招きされてソファーに座る悟の前まで行けば、突然腕を引かれて腰を抱かれる。見下ろす視線の先にサングラスの隙間から透き通ったビー玉のようなブルーの瞳が私を見据えた。

「ちょ、ちょっと!汗でベタついてるから……!」

慌てて悟から距離を取ろうともがくも「大丈夫大丈夫、全然汗臭くないから」と言って離そうとはしてくれない。

「そういう問題じゃないんだけど!せめてシャワー浴びてからにして」
「そうしたいのは山々なんだけどね〜、僕これからすぐに出なきゃならなくてさ。だから今しかないの」

そう言って腰を引き寄せる力が強くなる。いくらエアコンの効いた部屋で汗が多少は引いたと言ってもベタつきがなくなるわけじゃない。まったく、悟は乙女心というものがわかっていない。でも時間がない中でわざわざ会いに来てくれたことを思ったら無下にもできなかった。

「なまえを充電させて」
「……急速充電ね」

なんて、充電したいのは私の方なんだけど。
観念してそっと首に腕を回して体を預ける。なるべく汗がつかないように。なんなら無下限使ってくれてもいいんだけどな。
しかしそんな私の心配は、悟が隙間なく背中に腕を回したことであっさり捨てられてしまった。
大きな手のひらが頭をポンポンと優しく撫でる感覚が気持ち良くてそれだけで癒される。悟を感じるようにゆっくりと深呼吸をすれば自然と力が抜けていった。

「誕生日おめでと」
「ん……ありがと」

悟の温もりで心の充電をして、首筋に預けていた頭を起こす。短時間でこんなにも気分が穏やかになるから、ハグでストレスが軽減するというのは本当らしい。
しかしあまり長い時間こうしてもいられない。本音を言ったらこのまま膝の上で寝たいくらいなんだけど。

「それと今夜空けといて」
「いいけど……なんで?」
「なんでってなまえの誕生日だからに決まってるでしょ。美味しいもの食べに行こ。あとプレゼントも買いに」

「だから何がいいか決めておいて」と柔らかな声とともに整った顔の口角が上がる。
幸せを感じるというのはこういうことなんだろうか。好きな人といるだけで心が満たされる。
妙に気分が高まって、気付けば悟のサングラスを外してその艶やかな唇に触れるだけのキスを落としていた。目を合わせれば悟は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていて、それがあまりにおかしくて笑いそうになった。

「なになに?朝から積極的じゃん」
「別に深い意味はないよ。愛されてるなぁって思っただけ」
「これは夜に期待しちゃってもいいってこと?」
「だから深い意味はないって言ってるでしょ!」

ケタケタと笑う悟に声を張りながらサングラスを胸に押し付けて膝の上から退く。「あらら照れてる?」なんてからかうような声を背に「シャワー浴びてくるから」とリビングを出ようとドアに手を掛ければ、急に背中と首に重みがかかる。

「夜にまた迎えに来るから。おしゃれして待っててよ」

吐息混じりに囁かれた甘く低い声が鼓膜を揺らす。急にそうやって本気出してくるのはさすがに反則でしょ。そんな風にされたら頷くしかないじゃん。

「……わかった」
「ん。じゃあ僕もそろそろ行くとしますかね〜」

私の胸の高鳴りなど露ほども知らない悟は、先にドアを開けてリビングを出ていく。その後ろ姿をぼんやりと眺めていれば、靴を履いた悟が振り返る。

「また後でね」
「いってらっしゃい」

軽く手を挙げれば、悟は柔らかい笑みとともにひらりと長い指をしならせて私の部屋を後にした。

(プレゼントか……)

何かあったかと考えてはみるものの、今は特に欲しい物はないんだよな……。
悟との時間、なんて贅沢すぎるかな。夜だって時間を見つけて会いに来てくれるのかもしれないし。
けれどどんなに短くても悟がそれに応えてくれるのなら、彼の言うその期待することにだって今日くらいは素直に応えるのも悪くないから。


2023/09/18
title:鈴音

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