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ねえ好き、大好き

「おい、監視官」
「ついてこないで」

静音な刑事課フロアの廊下に足早に自身のヒールを鳴らす音が反響する。しかしいくら歩みを進めても背後にいる人物の靴音が止まる様子がまるでない。むしろ私の歩幅よりももっと早く、どんどん間隔が短くなってきている。
逃げるようにさらに早足で距離を取ろうとするも、それより先に肩を掴まれて引き止められてしまった。

「っ、離して」
「いきなり部屋を飛び出してどうした。具合でも悪くなったのか?」
「私に触らないで!」

声を張り上げれば一瞬の沈黙が廊下を漂う。しかし狡噛は肩に置いた手を離そうとはしない。私自身も口では離せと言いながら振り払うことができないのだから、つくづく厄介な感情を持ってしまったと呆れるばかりだ。
部屋を逃げるように出てきた理由なんて至極単純である。私と狡噛と常守さんの三人しかいないフロアで二人が親しげに話していた光景に耐えられなくて、何だっていいからその場を離れたかった。
常守さんが配属されて狡噛とペアを組むことが増えてから、たった数ヶ月で私の心の中は錆び付いた思いで侵食されていた。彼女が来る前は私と組んでいて付き合いもそれなりに長かったのに、それを横からあっさりと奪われた気がして悔しかった。もちろん彼女は何も悪くない。頭では理解しているのに、こんな風に妬んでしまう自分に心底嫌気が差しているだけ。

「それは監視官命令か?」
「ええ、そうよ。今すぐ離しなさい」

視界に入れないよう、顔を俯かせて言えば彼はひとしきり逡巡した後ゆっくりとその手を下ろした。権限を口にすれば素直に従う彼はまさしく飼い慣らされた猟犬だ。

「一体何があった?」

一拍置いてから狡噛が口を開く。どうやら離しはしたものの、追及はやめる気がないらしい。

「別に何もないわ。局長に呼ばれてたのを思い出しただけよ」
「嘘をつくならもう少しマシな嘘をついたらどうだ?そんな顔で言っても説得力ないぞ」

そんな顔ってどんな顔よ。大体、目を合わせないように顔を逸らしてるんだからその角度からじゃ表情なんか見えないでしょ。心の中ではそう悪態をつくも、彼の口から発せられる音には心配と本心を見透かしたような柔らかなトーンを感じて、ずっと耐えていたのについ鼻の奥がツンとなった。あんな風に二人だけの世界って感じで、仲良さげに話して私のことなんか目にも入ってないと思ってたのに。こうして追いかけて気に留める。伊達に長いことコンビを組んでいたわけじゃないんだということをこんな形で思い知らされるなんて。

「狡噛には関係ない」
「あんたのプライドがそれを許さないのは見てればわかる」
「……執行官が監視官に偉そうな口利かないで」

私がここで正直に関係大ありだと言ったらどうするつもりなの。常守さんと話してるところなんか見たくないから関わらないでって言ったら素直に言う通りにしてくれるの?するわけないでしょ?だって私のこんな醜い感情なんてあなたは知りもしないんだから。仮に知られたところでそれは私のエゴでしかなく、また彼が“嫉妬”という本来の意味を理解しない限り結果は変わりはしない。

「あんたの言うことは間違っちゃいないが抱え込みすぎるのも良くないぞ。少しくらい愚痴や弱音を吐ける相手がいたっていいだろ」

背後にいた狡噛が隣に並んで、今度はその手が頭頂部に触れる。やめて、そんな手つきで私に触れないで。なんでそんな風に気にかけるの。なんで優しくするの。やだ。やだ。私をこれ以上惨めにさせないで。溢れ出る思いにだんだん視界が滲んでいく。

「もし言いたくないなら無理に言わなくてもいい。だが無茶だけはするな」

しかし今だけは目の前にいる私だけを見つめてくれている。私を思って優しい言葉をかけてくれている。ただそれだけのことにこんなにも腹が立って、でも同じくらい嬉しくてたまらない。

「なんなの本当に……どうして放っておいてくれないのよっ……」
「あんたがそんな顔で泣いてたら放っておけるわけないだろ」

ぼろぼろと涙を流していることすら気にせずに彼の目を見れば、狡噛は眉を下げてこの上なく優しい声で囁いた。
公安局内で――しかも狡噛の前で泣くなんて一生の不覚。監視官が執行官に弱みを見せるなんてあまりにも情けない。彼の前だけでは絶対に泣きたくなんてなかったのに。しかしそんな思いとは裏腹に、一度崩壊した感情を再び抑えるのは容易ではない。
自分で拭うより先に狡噛の指が落ちていく雫に触れる。無骨な手。かさついた手のひら。そのわずかな指先から伝わる温もり。私だけを見つめているその瞳。たったそれだけでこの不細工な泣き顔を見られたことがどうでも良くなる。勝手に常守さんに対して敵視しているだけなのに、無意味な優越感で満たされていく。

「触らないでって言ったでしょ……」
「それも監視官命令か?」
「…………」
「そうじゃないなら、それは聞けない」

彼の純粋な優しさに託けて自分の醜さから目を逸らしているなんて本当に最低だ。でも今はそのどうしようもない優しさに縋りたい。
――好きなんだ。そんな狡噛のことを、私はずっと前から好きになってしまっている。

「狡噛のそういうところ、本当に嫌い。大っ嫌い」
「そのくらいがちょうどいいさ。執行官に肩入れしてたらあんたの色相が濁っちまう」

さっきと言ってることが矛盾してるじゃん。そうやって私の立場を気にしてやんわりと線引きをしているくせに、何かあれば立場や理由なんてそっちのけですぐに手を差し伸べてくる。私がそんな彼の優しさをひたすら突き放して、嫌われるくらい狡噛にとって嫌な人間になれたらどんなに楽だったか。
何度同じようにしたって彼の私に対する態度は変わらない。心優しい狡噛はそうして錆び付いた私の心をいとも簡単に剥がしていってしまう。

「だがつらい時は胸でも何でも貸してやる。みょうじが暗い顔をしてるとどうにも落ち着かん」

後頭部を引き寄せられて肩口に顔を押し付けられる。涙でスーツが濡れるとか口紅やファンデーションが付いて汚れるだとか、きっと狡噛は気にもしないんだろう。
この男はいつだって計り知れないその優しさで私の心を掴んで離さない。どうしたって嫌いにはならせてくれないんだ。


2023/06/27
title:金星

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