海に花は咲かない
シーアンで常守が狡噛と再会した時、彼女は言った。
「あなたにそのつもりがなくても重力のように引き寄せられる人間がいる」
それは狡噛が海外で放浪の旅を続けていた間だけではない。それよりもずっと前から、最も身近な人間によって発生していた。
「本当にいいのか?」
「必要とされているのなら期待に応えるだけです。それに宜野座さんと須郷さんも一緒ですし、仕事する分には支障はきたしません」
抑揚のない声で答えるなまえを、宜野座はただ心配そうに見つめる。
ピースブレイカーの一件後、なまえと宜野座と須郷の外務省海外調整局行動課への転属が決まった。そこには課長の花城と元公安局刑事課の――なまえの部下だった狡噛が所属していた。
「あなたたちと狡噛の関係は理解しているつもりよ。事情はどうあれ、仕事さえきっちりやってくれれば他は口出ししないわ」
「もちろんです。今更彼に対してとやかく言う気もないので」
冷めた声で淡々と述べるなまえだったが、その言葉が完全なる本心ではないことに宜野座は気付いていた。
狡噛が姿を消したあの日――なまえは嗚咽を漏らしながら泣いた。情けないくらいに泣きじゃくったのは、刑事としていられなくなった狡噛を悔いただけではなかったから。
なまえのそんな姿を見たのは後にも先にもこの日だけだ。彼女が狡噛に対して恋慕を抱いていたからこそ、彼女を泣かせた狡噛のことが尚更許せなかった。「あんな奴のことなんかさっさと忘れた方が君のためだ」と、そう言って彼女の涙を拭ってやれたら良かった。しかしなまえの大粒の涙と、約束を破られてもなお彼女の中で狡噛の存在が大半を占めている――そう簡単になくならないことを知り、宜野座はただ誰よりも近くでその姿を見守ることしかできなかった。
そう、忘れられたらどんなに良かったか。あのまま一生会わなければ、過去のことだからと自然と風化していくはずだったのに。5年経ったこの時に再会してしまったことで、蓋をしていた感情が目の前に現れた本人によって一瞬にして呼び起こされてしまった。
しかもよりによって狡噛をスカウトした外務省の花城によって引き合わされることになるとは、世界はどうしてこうも狭いのか。
◇
「成長したな。フレデリカがスカウトしたのも納得だ」
外務省本庁の高層ビルのテラスで、なまえがベンチに座って休憩していると不意に後ろから声がした。しかしなまえは振り向くこともせず視線を眼下の景色へと向けている。出島が海外からの外国人の受け入れ拠点となっているため東京に比べて日本人は少ないが、ビルがそびえ立つこの風景は東京とさほど変わらない。
狡噛がなまえのそばへと足を止めて煙草に火をつける。吹き抜ける風が、紫煙を空へと攫っていく。懐かしいその匂いになまえは小さく顔を顰めた。
「なあ、俺と会話するのがそんなに嫌か?」
「…………」
なまえはその言葉すら無視をする。その原因となっている理由がまるでわかっていない物言いが心底不快だった。
雑賀教室の出身でプロファイリングや心理を読み解くことに長けているのに、昔から他人から向けられる好意にはこの上なく鈍感だった。そのくせ自分はズカズカと心の奥深くまで踏み込んでは無自覚でなまえの心を掻き乱していく。あの頃から、何も変わっていない。
行動課として配属された以上、狡噛と共に仕事をすることは避けられない。それを承知の上でなまえは転属を受け入れた。だから任務で行動を共にしなければならない時や仕事に関することならば、必要最低限であるが会話はする。そこに私情は挟みたくない。しかしこうしてふとした時にされる雑談はどうにも癇に障る。口を開けばきっと責めるような言葉しか出てこないから。一度そのスイッチが入ってしまえば、長年の想いが涙となってこぼれ落ちてしまうから。だから余計なことは聞かないし聞きたくもなかった。
「……何様のつもりなんですか」
ようやく発した言葉はひどく冷めていて、しかしどこか悲しげでもあった。なまえが本当に欲しい言葉はそんなものじゃない。それをこの男は何もわかっていない。
その通りだと自嘲するだけで狡噛は黙ったまま何も答えない。何よりなまえからのキツい言葉は少なからずクリーンヒットした。
なまえを心配する権利もましてや励ます権利もない。だがなまえを気にかけているその気持ちに嘘をつけない狡噛は、彼女の気持ちなど考えずに自分が思ったことを素直に口にしてしまうのだ。
「今更狡噛さんと話すことなんて何もないです」
そう言い放ってベンチから立ち上がったなまえが狡噛の横を通り過ぎる。引き止めなかったのは、なまえの求めている言葉が言えるわけじゃないことを曲がりなりにも理解していたから。
入れ替わりで入ってきた宜野座がなまえを一瞥すると、その横顔は苦しそうに涙を堪えているように見えた。そんな彼女が気がかりだったが、宜野座は追うことなくその後ろ姿に思いを巡らせることしかできない。
「余計なことは言ってないだろうな」
「言ったつもりはない」
「お前がそのつもりでも受け取る彼女はそうはいかない」
睨みつけながら宜野座が訴えるが、狡噛は依然表情の変化もないまま煙を目一杯吸い込むだけだった。
狡噛の存在が彼女にどれほどの影響を与えているかなんて、そばで見てきていれば嫌でもわかる。宜野座も同じようにそうやってなまえを見てきたから。
彼女自身も宜野座も、狡噛をろくでもない奴だと、何を言っても聞かない奴だと理解はしているのに仕事での実力は認めているから、だからこそ余計に憎くてたまらない。なまえが行動課への転属を自らの意思で断ることだって出来たのにそうしなかったのは、執行官だった頃の彼をよく理解していたからだ。絶対的な信頼は今も揺るがない。
そばにいたらまた傷つくかもしれない、もしかしたら対立する日が来るかもしれない。それでもなまえの心からずっと離れないでいるのは、彼と過ごした日々が忘れ難い記憶として刻まれているから。
「一度ならず二度までもお前はそうやって平気で彼女を傷つける。あの態度を見て何とも思わないのか?」
「思わないわけないだろ。だがあいつが何を考えているかは言ってくれなきゃわからない」
そう述べる狡噛に宜野座の眉根に深い皺が刻まれる。あまりに無神経な発言に思わず左手が出そうになった。
自分だったら彼女の考えていることなど容易いのに。傷つき悲しむ彼女の涙を拭ってそっと抱きしめてやるのに。何度それが出来たらと思ったか。しかし宜野座がしたところでなまえの傷が癒えるわけじゃない。ぽっかりと空いた穴を自分が埋めることはできないから。それを知っているから、どう足掻いたところで受け止めてはやれない。誰よりも理解していても触れることは許されず、ただただずっと秘めた想いを心に宿して物理的に寄り添うのが限界だ。
「この期に及んでわからないなんてただの甘えだ。お前にそんなことを言う権利はない。少しは自分で考えてみろ」
「これでも考えたんだよ」
あの日泣かせてしまったことに罪悪感がなかったわけじゃない。海外を放浪としている間も毎年その時期が近づくと思い出すくらいには彼女のことを考えた。それでもこうして面と向かい合って露骨に不快な顔をされてしまったら、本心を読み取れない狡噛はお手上げだった。
「狡噛、お前はいつも言葉が足りない。彼女が本当に聞きたい言葉が理解できないなら今後一切気安く話しかけるな」
「手厳しいね」
「お前がぬるすぎるんだ」
なまえの瞳に自分が映らなくてもいい。自分が幸せにしてやることができないのなら、せめてこれ以上なまえが傷つかないように、彼女がただ一人だけをずっと見つめているこの男にせめてもの助言してやるだけだ。どうせいくら努力したところで、この先も狡噛には勝てないのだから。
「泣かせた責任はしっかり取れ。……俺じゃ、彼女の涙は拭ってやれない」
――宜野座さんのこと、好きになれたら良かったのにな。
残酷な言葉を突きつけられてもなお変わらずに想い続けているのは、宜野座もまたなまえと同じだからだ。一度その人に引き寄せられてしまえば、そう簡単には離れられない。
二人は今もずっと、もがき苦しみながらも透き通った青の水底から抜け出せずにいる。
2023/06/15
title:金星
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