さよならの匂いが消えない
その男との出会いは偶然、必然、あるいは運命――しかしいつか来る別れは抗いようのない運命だった。
母国に捨てられて何年経ったか――。生きる希望すら失いかけていた。シビュラシステムの下でのうのうと生きてきた人間が、荒れ果てた土地で生き抜くなんてたかが知れてる。どこにいようと人はいつか命の終わりを迎える。いつ死ぬか――明日か、はたまた数年先か。そんな抜け殻だった私に手を差し伸べてくれたのは、技術支援がきっかけで出会ったテンジンの父だった。
しかしその恩人はゲリラによって無惨にも命を奪われた。今度こそもう死んでもいいと思った。けれど恩人の愛娘――テンジンを残していけるはずもなかった。
絶望と憎悪、黒の感情が激しく渦巻いた。尊い命があっけなく奪われるこの世界で初めて生きたいという感情が生まれたのはきっと復讐心に近いものだった。
それから気がつけば早数年――残されたテンジンの親代わりとして彼女の叔父、キンレイとともに私はこの地でどうにか生きながらえていた。
そんな時だった。テンジンとともに乗り合わせたバスが襲撃にあったのは。彼と出会ったのは。
テンジンが復讐のために彼に先生を頼んだと聞かされた時は、その本気さに少し胸が痛くなった。もちろん私だって恩人を殺したゲリラが憎い。こんな全身から沸々とわき上がる怒りは初めてだった。テンジンの気持ちだって痛いほどわかる。だがどうにも復讐するという気は起きなかった。
単純に勇気がなかったからだ。犯罪が起きる前に処分、隔離されるシステムの中で生きてきたのだ。そんな自分は想像できないし、したこともなかった。ただわかることは、きっとそこに手を染めてしまったら今までの自分には戻れないということだけだ。銃あるいはナイフ、はたまた自らの手――そこに残る感触は一生消えないだろう。
狡噛慎也――彼もまた日本に捨てられた放浪者だった。彼に言わせれば捨てられたのではなく、システムに殺されるか逃亡するかで後者を選んだらしいが。詳しくは聞かなかったが、復讐を果たした末のあてのない旅でここに辿り着いたと言っていた。
それから彼とともに生活していくうちに、ひとつの感情が生まれた。離れたくない、この人のそばにいたいと思うようになった。
恋慕――とは少し違う。人間としての彼の本質的な部分に大きく惹かれた。魅了された。彼からしたら不本意なのかもしれない。が、私からしたらそれは眩しいくらいに魅力的であった。
テンジンに対し「先生なんて柄じゃない」と言いながらも身を守る術という条件で甲斐甲斐しく面倒を見ているし、テンジンが怪我をしたと知れば自分のことのように怒った。私に対しても何かと気にかけてくれたし、かすり傷程度の傷でも彼はひどく心配した。そのくせ自分のこととなると命すら惜しまないと言わんばかりに真っ直ぐ突き進んでいく。ゲリラに情けをかけて逆に殺されそうになったと聞いた時は心底肝を冷やした。
彼は優しい。その優しさが残酷だと思わされるくらいに優しすぎるのだ。そんな彼の存在がいつしか自分でも気づかないうちに大きくなってしまっていた。こうして一緒に過ごす時間が永遠に続くことはないとわかっているのに、それでも期待してしまう。かりそめの平和でも構わない。この人とこれからも共にいられるのなら、システムに捨てられたことも意味があったと思えるから。
朝日とともに澄んだ空気が肺に流れ込む。陽が出ていても全身を包む風は少しひんやりしている。しかしそれを上回る熱が内側からこみ上げている。テンジンのおまけ程度にしか稽古を付けてもらっていなかったが、前よりすぐに息が上がらなくなった気がする。それもこれも彼のおかげだ。やっぱり人に物を教えるのが上手い。ああ、そういえば教員免許を持っていたと言っていたっけ。学生時代にあんな先生がいたら好きになってたかも。短い息をリズム良く吐きながらそんなことぼんやりを思う。
彼が今どこにいるのか検討はついた。停戦監視団の隊長――ガルシアが狡噛によって暗殺されたとのニュースを聞いて、テンジンのいる病院を飛び出してきた。もう会えない――別れが来ていると直感したから。胸がざわつくこの感じは今まで感じたことがないかもしれない。彼のもとへと向かってひたすら走った。
高台を視界に捉えると黒の4WDが止まっているのが見えた。辿り着いた頃にはさすがに息も切れていた。えずきそうになるのを抑えるように一旦呼吸を整える。目的地はもうすぐそこだ。
「っ、狡噛さん!」
振り絞った声に彼が気づく。隣にいたフレデリカさんに何か言った後、石段の下で立ち止まっていた私のもとへ駆け寄ってきた。
まだゆっくり話せない。荒い呼吸を整えながら彼の顔を見るも動揺すら見えない。特別驚いた表情をしていないことが何だか悔しくて寂しくて。彼にとって私たちと離れること、この地を離れることは何でもないことなのか。聞けばいくつもの国を転々としてきたのだ。いちいち別れを惜しんでいられないのだろう。そう思って自分を納得させようとするも、それを受け入れたくないと思っている自分がいる。言葉にするより先に雫がこぼれた。こんな風に人前で泣くなんていつぶりだろうか。情けないくらいに溢れ出て止まらない。
嗚咽を堪えながら彼を真っ直ぐ見る。歪む視界をクリアにしようとぎゅっと目を瞑れば頬を伝って音もなくアスファルトに溶けていく。狡噛さんは何も言わない。私が伝えたいことを待ってくれているようだった。指の腹で流れるそれを払う。
「バカ……!」
極限までに鍛えられた厚い胸板に頭を押し付ける。どうして何も言わずに去ろうとしたの。どうして。どうして。言いたいことはたくさんあるのに言葉になったのはその一言だけだった。
別れの言葉もなしに去っていくなんて、そんなの絶対に許さない。彼なりの優しさなのかもしれない。でも今はその優しさが苦しい。別れの挨拶をしたらそれこそ離れがたくなるというのもわかってはいる。もう二度と会えないと思い知らされるのもつらい。けれど言葉にして、咀嚼して、徐々に受け入れないと諦めの悪い私はいつまでも期待してしまいそうだから。
顔を押し付けた黒のインナーは涙で濡れている。狡噛さんはなおも何も言わない。困らせてしまっただろうか。上着をぎゅっと握りながらそんなことを思っていると、ふと頭に温もりが広がる。優しく抱き寄せられ、大きな掌がゆっくりと髪を撫でる。本当に復讐をしたのかと思うほどに無骨な手は優しい手つきをしていた。何も言わずに去っていくと決めたならいっそ突き放すくらいしてくれたら良かったのに。抱き寄せた手は遠慮がちだった。彼の優しさにつけ込んで私は余計なことをしてしまっただろうか。
その優しさがとてつもなく残酷だけれども彼の人間性をよく表していると思った。
「女子供に泣かれるのは苦手だ」
ようやく吐き出した低い声は戸惑っているようでそれがまた胸を締め付ける。止まらない涙。喉が熱く焼けるようだ。
行かないでと言ったらここに留まってくれるだろうか。いや、彼の信念は強く揺るぎない。やるべきことが見えたであろう以上もう私に止めることはできない。
共にしたのはたった二週間程度だった。しかし彼が来てからの毎日は濃く、とても充実していた。この出会いはきっと忘れない。忘れたくても忘れられない。それほどまでに狡噛慎也という存在は大きかった。彼が来る前の生活に戻るだけなのに耐えようのない虚無感が襲ってくる。
幾度となく出会いと別れを繰り返してきた彼の中で、私の存在はどれほどのものだろうか。海外で同じ日本人に会った――その程度でも構わない。本音を言ったら悲しいけれど。
「元気でな」
彼の胸に色褪せない思い出として残る人でありたいな、と腕の中で切に願うしかなかった。
2020/07/09
title:ジャベリン
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