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眠る月を揺り起こす

 夜勤の勤務は余程の事件が起きない限り、デスクワークくらいしかする事がない。夜中に緊急出動するという事は稀である。
 息抜きがてらにあてもなく局内をぶらぶらし、何となく気分で室内プールへと立ち寄った。緊急の連絡が入る可能性があるため泳ぐ事は出来ないけれど、足だけ浸かって少しの間ぼーっとするのも悪くないだろう。
 ジャケットを脱ぎ、早速プール内へと行けばホロの明るさに思わず目がくらむ。天井から見える月の光がかき消されてしまいそうなほどだった。
 歩みを進め、適当な所でプールサイドの端から足を浸からせた――と同時に数メートル先の方から大きな音を立てながら誰かが水中から顔を出した。とはいえ、こんな時間にここにいる人物と言ったら彼くらいしか思い浮かばないのだけれど。

「こんな時間にトレーニング?あなたのストイックさにはほとほと呆れるわ」
「みょうじか。あんたこそこんな時間にどうした?今日は夜勤じゃなかったか」
「休憩中」
「そうか」

 大量の水を滴らせて狡噛さんはプールから上がる。
 ドミネーターに頼りきりというのもいざという時に困るが、さすがに鍛えすぎではないだろうかと常々思う。しかし極限までに肉が削ぎ落とされた体は私の欲を煽る要素でしかなかった。ごくり、と思わず小さく喉を鳴らす。おまけに濡れた髪をかき上げる仕草がやたらと色っぽく、勤務中だというのに彼を見ていると無意識についあれこれ考えてしまう。
 その体に触れたい。柔らかな唇を奪いたい。彼の熱を感じたい。
 いつからか私の心の奥底には色欲にまみれた獣が潜んでいた。彼の事は好きだ。きゅう、と胸が締め付けられる事だってある。けれど私の中に芽生えたものは恋心といった可愛いらしいものではなく、彼を渇望する穢れた感情だけだった。
 そのまま地べたに腰を下ろした狡噛さんの隣に私も腰を下ろす。

「あんた確か泳げたよな」
「まあそれなりには」
「今度一緒にトレーニングでもどうだ?相手してくれる奴がいないから退屈なんだ」
「別に構わないけど……どうせなら別のお誘いがいいわ」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。けれど自然と出た言葉だからか、仕方のない事だと妙に納得してしまった。私と彼の立場が違っていたなら、色相を濁らせないようにと自制出来たかもしれない。でもお互い失うものは何もない――と言ったら多少語弊はあるものの、気にする事が少ないのは事実だから。

「それはどういう意味だ?」
「言わなきゃわからない?」

 我ながらずるい聞き方をしたと思う。
 肘を伸ばして休んでいる彼の足の間に体を寄せる。それからじっと見つめていれば、澄んだグレーの瞳が私を射抜いた。刹那、心なしか空気が変わった気がした。
 至近距離で目を合わせてしまえば、私の中で不安定に積まれていた積み木はガラガラと大きな音を立てていとも簡単に崩れ去ってしまう。彼も同じ事を考えている――なんて所詮はただのエゴでしかない。けれども交わった瞳からは不思議とそう感じたのだ。
 乾ききっていないその体に手を添えて、濡れた唇にゆっくりと触れる。お互い何かを言うわけでもない。好きだと口にしてもいないし言われてもいない。ただただ、見つめ合う。

「柔らかくて温かいものは色相のメンタルケアにいいらしいわよ?」
「俺たちにとっちゃあまり関係ない気もするがな」

 彼の唇に指を乗せて問いかければ、「関係ない」などと言いながらも腕は私を引き寄せるようにして腰を抱き、微かに笑みを浮かべていた。

「本当にそう思ってる?」

 そう答えた瞬間、プール内の照明が一斉に消えた。どうやらもう消灯時間らしい。自動消灯は何となく不便だなと思っていたけれど、今回の雰囲気作りという点においては素直に感謝すべきかもしれないと思った。

「あ、消えちゃった」
「もうそんな時間か」

 ホロにかき消されていた月光がプールを照らす。ゆらめく水面、しんと静まり返る室内――その暗闇が合図となったかのように、どちらともなく唇を寄せた。
 それから私たちは夢中で貪るようにキスをくり返し、互いの熱を求めた。吐息の漏れる声が脳を刺激し、私の中に眠る小さき獣の欲を呼び覚ます。角度を変え、さらに彼を求めるようにたくましい首に腕を回す。
 熱くなった舌をねじ込めば、彼も応えるようにして私の頭を引き寄せ、腰を抱く腕の力も強くなる。言葉はなくとも求められている――それだけで体の奥がさらに熱くなるのがわかった。
 互いの体が隙間なく密着する。彼の体に残る水滴が私のカッターシャツに染み込んでいく――まるでひとつになったみたいに。

「っ、狡噛さ、ん……」
「なまえ」

 このまま本能のままに堕ちてしまいたい。そう感じながらも、さすがに息が苦しくなって酸素を求め唇を離した。
 どちらのものかわからない唾液が口の端から滴り落ちる。狡噛さんはそれを掬い取るようにキスをし、それから舌舐めずりをして自身のそれを拭う。その姿がとてつもなく色気に満ち溢れていて、私は溢れ出す欲を抑えるのに必死だった。もう何をしてもどんな姿でもそういった気持ちにさせられてしまうから困ったものだ。

「……息切れひとつしてないなんて、なんか悔しい」

 私だけが息を切らし、目の前の彼は顔色ひとつ変えず物足りないとでも言いたげな表情をしている。
 私だって、理性を投げ捨て本能のままに欲に溺れ、ただの男になる彼を待ち望んでいる。私にしか見せない表情を見せて欲しい。

「日々のトレーニングの差だな」
「筋トレが恨めしいなんて思ったのは初めてよ」
「まあそう拗ねるなよ」
「別に拗ねてなんか――っ、」

 襟元を捲られ首筋に顔を近付けられたと思えば、ちくりと痛みが走った。小さく音を立て、舐め上げる感覚に快楽でぞわりと体が粟立つ。ああ、もうキスだけでは足りない。彼の全てが欲しくてたまらない。熱を含んだその舌で、鍛えられたその体で私の全身を愛撫して欲しい。

「ねぇ、もっと……」
「はは、まさかあんたがここまでいやらしい女だったとはな」
「半分は狡噛さんのせいだから……」
「他の奴らが知ったらどう思うだろうな」

 からかうように狡噛さんは口元を緩ませる。私だって自分がこんなにも欲深い人間だったなんて知りもしなかった。

「ふしだらな女はやっぱり嫌?」
「いいや?俺を必死で求めて乱れるあんたが見られるんだ、悪くないさ」

 ゆっくりと視界が反転する。月明かりが彼を照らすその光景はさながら狼のようだ。その鋭い眼差しに呼吸が荒くなる。しかしそれ以上に気分は高揚するばかりで。

「なまえ」

 ゆっくりと覆い被さってくる大きな体――待ち焦がれていたそれを受け止めるように、私はそっと両手を伸ばした。


2018/02/23
title:ジャベリン

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