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バニラビーンズの不眠

 彼を一言で表すとするならば“狡い人”――。

 槙島を殺害し、海外に逃亡してから四年が過ぎた。最後に見た彼の表情は、今思い出そうとしてもひどく曖昧な記憶でしかない。
 夕日に照らされ、静寂の中で揺れる麦畑。その音だけがやけに耳に響く。肝心の表情は逆光でよく見えない。ただそれだけが鮮明に残っている。
 彼が刑事を捨てる前、私の悲痛な問いかけに彼は肯定の返事をした。刑事でいると、そう約束した。けれどそれは泡沫の如く消えていった。裏切りによって傷付いた心、引き止められなかった悲しみ、もどかしさ――様々な感情が私の中に渦巻いた。
 それからずっと、やるせない気持ちが拭えないまま今日まで来た。

――そんな中、まさか再会するなんて。世界は案外狭いのかもしれない。それともこうなる運命なのだろうか。四年前と比べてさらに筋肉が付き、逞しくなった元執行官――狡噛さんの姿をぼんやりと眺める。スーツ姿からでもわかるほどの肉体を持っていた事はわかっていたけれど、タイトなインナーを身に着けているからかより筋肉質な体になったと感じる。本当にこの人はどこまでもストイックだ。だからこそここでも生きて行けるのかもしれない。
 それに多分、長生き……と言ったら聞こえがいいかもしれないけれど、簡単に死ぬ事はない――不思議とそんな気がしていた。
 何だか日本で刑事をしていた時よりも生き生きしているように見える。性に合ってるのかと思ったらそれはそれで正直複雑ではあるけれど。

「そんなに長く見つめられちゃ、さすがの俺も勘違いするぞ」
「別に、見つめてたわけじゃ」
「冗談だよ」

 からかうような、けれどどこか柔らかい笑みを見せて狡噛さんは自身が入れたジャワティーを口に運ぶ。――何だろう。上手い言えないけれど、この人はとにかく“狡い人”だ。
 約束を破っても許しを請わず、私もまた己の正義に従って彼を裁く事が出来ない。どうせならもう二度と会わず、けれど人知れずにどこか遠い地で生き延びてくれたらいいのになんて思ってしまう。
 
「……そろそろ寝るか。明日何が起こるかわからない。休めるうちに休んでおかないとな。あんたも疲れただろう。粗末なベッドで悪いが床で寝るよりはマシだろ」
「狡噛さんはどうするんですか」
「俺はイスでも並べて寝るよ。寝られりゃ別にどこでもいい」

 本当にこういうところは変わらないんだな。執行官の時も結局最後までベッドはなかったし……。こだわりがなさすぎるというかなんというか……。槙島を追う――本当にただそれだけのために生きてきたみたいだ。それ以外には関心がない。

「いい加減転寝はやめたらどうですか?そんなんじゃ体も休まらないし疲れも取れないでしょう。一日くらいだったら大丈夫ですから、私がイスで寝ますよ」
「そういうわけにもいかないだろ。それともなんだ、ひとつのベッドで二人で寝るか?」

 また、からかうような笑み。振り回されてる……?本心なのかなんなのかわからない言動は昔からあった。けれど今は立場が変わった事もあってか、狡噛さんの考えてる事が昔よりわからなくなった気がする。

「狡噛さんがいいなら別に私は構いませんけど」
「……あんた、本気で言ってるのか?」

 反撃のつもりだった。とはいえ、ちゃんと寝て欲しいという思いも少なからずあった。それにこう言えば狡噛さんなら必ずまた「冗談だよ」と返すと思ってたから。
 狡噛さんは呆れたようにため息を吐く。

「自分が女だって自覚ないだろ」

 その返答にはさすがに反論の余地があっても良いのではないだろうか。自分から問いかけてきたのに、まるで私が悪いと錯覚すらさせられるこの状況――呆れた表情を見せるくせに、目つきはまるで獲物を捕らえたかのように真剣そのもの。
 強引に手を引かれてベッドに腰掛けたかと思えば、そのまま後ろに重心をかけられ強制的に寝かされる。
 吊るされたオレンジ色の豆電球がゆらゆらと弧を描く。あの時の夕日が、ふと蘇った。
 頭上には狡噛さんが覆い被さったまま、逃がさないと言わんばかりに手首を固定される。飼い主に忠実だった猟犬の影はない。檻から解放された猟犬、欲にまみれた獣。
 これが狡噛さんの本性なのかと思ったら何だか体の内側から熱くなるような、何か酷い病に侵されたかのような感覚に陥った。

「狡噛さんこそ、らしくない事しますね。一緒に仕事してた時はこんな素振り、一度も見せた事なかったのに」
「そうだったか?これでもあんたの事、結構気に入ってたんだよ」
「何ですかそれ。初めて聞きました」
「初めて言ったからな」

 崩したような、挑発的な笑みを見せながら手首の力を緩ませ、今度は指先が交わる。私の手が熱いのか狡噛さんの手が温かいのか、はたまた両方か。触れ合う指先に熱が集まる。夏でも夜は少しばかり気温が下がると思っていたけれど、どうやら違っていたらしい。徐々に背中からもじんわりと熱が帯びていく。

「なまえ」

 気に入ってたという言葉がどれほどの意味なのか、理解出来ないと言えば嘘になる。でももしあの頃からそんな風に思っていたのなら、きっとこの先私は狡噛さんの一番にはなれないだろう。ベクトルが違っていても、狡噛さんの中で後にも先にも一番に占めているのは槙島だろうから。もし仮に槙島が生き返ったなんて事があったとすれば、狡噛さんは迷わず槙島を追いかける。
 支配、呪い――標本事件から決して変わる事のない運命。私には変える事の出来ない運命。
 それでも、それでも。

「好きな女に触れたいと思うのはいけない事か?」

 撫でるようにして頬に触れる。その手つきは槙島を追っていた時には想像もつかないほど優しくて温かい。
 本当に、どっちが本来の彼なんだろう。この疑問だけはいつまで経っても答えが見つからない。
 いけないと言えたら良かったんだけどな。頬に触れる狡噛さんの手に触れながら、そっと目を閉じた。

 狡噛さんを一言で表すとするならば“狡い男”だ。


2018/01/08
title:金星

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