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ロンリー・レイニー・ガール

 誰もいない美術室で一人黙々とキャンバスに絵を描く――特に悩みがある時は不思議とその作業が捗る。おかげで今回はいつもよりも早く仕上がった。

「ふぅ」

 筆を置いてふと窓の先の空に視線を移せば、今にも雨が降りそうな曇天。立ち上がってぼーっと暗い空を眺める。……何だか今の私の心情を映しているように思えてため息がこぼれた。

(叶わないなんて事は最初からわかってるけど)

 つい最近赴任してきた教師――柴田先生が脳内に浮かぶ。
 先生は稀に見る端整な顔立ちをしていて、自己紹介をしている時についまじまじと見てしまったくらいだ。
 そんな私に気付いたらしい先生とバッチリ目が合った時に、ようやく自分が凝視していた事に気付き慌てて目を逸らした。

――私は先生が好きだ。でもそれだけで、別に同じように好きになって欲しいだとか、ましてや付き合いたいなんて思ったりは微塵もない。ただ先生を見つめていられるだけでいい。――なんて思いつつも心のどこかでは淡い期待を抱いている自分もいて。
 他の生徒よりも少しだけ、ほんの少しだけでいいから先生の中で特別な存在になりたい――と。でも……仮にそうなったところで何になる?そんなのわからない。そうやって自問自答をくり返すだけで結局いつも答えは出ないままだ。

「『今望んでいるものを手にして、何の得があろうか。それは夢、瞬間の出来事、泡のように消えてしまう束の間の喜びでしかない』」

 以前読んだ本にそんな事が書いてあったっけ。一瞬の喜びのためにその先にある大きな喜びを自ら捨てるのは愚かだ、と私はそういう風に解釈している。これは逆の言葉でも同じ事が言えるし、恋愛にも言える事だ。傷付くとわかっていてもあえてそちらを選択したり、望みのない未来だとわかっていても目先の些細な事に嬉しくなったり……。むしろそういうのが恋というものなんだと思う。それがたとえどんなに悲しい事でも。たった一度の出来事でも。

「シェイクスピアの言葉だね。君も本を読むのかい?」
「!?」

 だから……束の間の喜びが永遠に勝る時もあると思っている。それがまさに今であるように。
 不意に聞こえてきた声の方へと勢いよく顔を向ければ、そこに立っていたのは焦がれていた先生の姿。

「先、生……」
「一瞬のために永遠を捨てる愚者はいない、と言ったところかな。しかし僕はこの言葉にはあまり共感出来なくてね」
「どうして、ですか?」

 純粋に問いかけてみれば先生は小さく笑みを浮かべながらこちらに歩みを進める。ちらりと先生が手にしている物へと視線を移せば、それは今では珍しい紙の本だった。私は電子書籍で読んだけれど、先生は紙の本で読んだのだろうか。手に入れるのは相当難しそうだけど……。
 隣に立った先生は、さっきまでの私と同じように空を眺めながら続ける。

「一生枯れない花畑と、摘んで数日で枯れてしまう一輪の花を比べたら後者の方に価値があるとは思わないかい?」
「……何となく、わかる気がします」

 とはいえ、ほとんどの物がホログラムで形成されている今に"花が枯れる儚さ"を理解出来る人間はほぼいないのだろうけど。

「僕はいつも思うんだ。仮に"死"という概念がない世界があったとして、果たしてその世界で生きる人間に価値はあるんだろうか、とね」
「……つまり"死"という誰もが迎える末路があるからこそ、生きている間にどう行動するか、そこに人間としての価値が存在する……という事ですか?」
「その通りだよ。人間は自らの意志に基づいて行動した時のみ価値を持つ。そういう意味では、思考するという事をしなくなった今の時代の人間にはほぼ価値はない、という事になってしまうけどね」
「…………」

 先生の言葉に思わず俯く。もし今ここで私が思っている事を打ち明けたら先生は何と返すだろうか。恋だの愛だのなんてくだらないと言うだろうか。

「みょうじさんは読書はよくするのかい?」
「はい。今は昔の偉人の作品を読んだりしてます」
「ちなみにプルーストは?」
「あ、それはまだ……」
「彼の作品にこんな言葉がある。『欲する心にはすべてを開花させる力がある。所有したという事実はすべてをしぼませ枯らしてしまう』……さて、君はこの言葉の意味をどう捉える?」

 金色に染まる瞳にじっと見つめられて鼓動が速まると同時に、今その瞳が映しているものが私だという事実に嬉しくなる。でもそれ以上に、その真っ直ぐな視線は私の思っている事を何もかも見透かしているようにも思えて……。急に妙な緊張感に包まれて思わず視線を窓の外へと動かしてしまった。

(もしかしたら本当に見透かしているのかも……)

 そのための問いかけなのだとしたら先生の思いは――。

「……過度な欲を持たず何事も程々に、近すぎない一定の距離を保て、というような感じでしょうか」
「そうだね。人間は手にした瞬間に安堵で欲は消え、いずれ冷める。それがどんなに欲していたものでもね。つまり何事も届きそうで届かない、もどかしさを抱えている時が人間にとって一番悩ましくも幸福な事なんだと僕は思うよ」
「…………」

 つまり、恋焦がれ想う事は自身を高める原動力になるが、それ以上の進展が必ずしも良いとは限らない――先生の言葉の奥にある思いにはそういう意味が含まれているのだろうか。

「『期待はあらゆる苦悩のもと』……僕は君が思っているような人間じゃないよ」

 そう言って満面の笑みを見せる先生が何だか私の知っている先生じゃないみたいで……少しだけ恐怖を抱いてしまった。
 何もかも知った上でこういう言い方をするのは先生なりの優しさなのか、はたまた単に事実を言っているだけなのかは私にはわからない。
 ただひとつだけわかる事は、恋が終わったという事だけ。

 曇天だった空から水滴が落ちてきてぽつぽつと地面を濡らしていき、やがて雨音を立ててあっという間に一面に広がる。二人きりの教室にはその音だけが静かに響いていた。

 どうやらこの雨もしばらくは止みそうにない。


2016/08/27
ウィリアム・シェイクスピア
マルセル・プルースト


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