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角砂糖が溶けるころ

 喫茶ポアロ――ランチメニューが手頃な値段で食べられて、デザートの種類が多いのが魅力的な温かい雰囲気が特徴の喫茶店。以前から常連として通うほどお気に入りのお店だったのだけど、ある日店員の梓さんに「最近忙しくて人手が足りなくて困ってて。もし良かったらどう?」とお誘いを受けたのがきっかけで、私はこの日を境に常連兼店員となった。
 もちろん通っていた頃からもう一人の店員である安室さんがいた事は知っていた。行く度に他愛ない会話をしたり、会って何度目かでよく頼むメニューを覚えてくれたり。居心地の良いお店と梓さんと安室さんの仲の良い雰囲気も相まって、初出勤の次の日から私は瞬く間にここに来る事が楽しみとなっていた。

 出勤七日目の今日はコーヒーの淹れ方を教わる日。会計や注文の取り方は先輩である梓さんに教えてもらったから今日もそうだと思っていたのだけど、「コーヒーは私より安室さんの方が淹れるの上手だから安室さんに教えてもらって」と梓さんが言った事でもう一人の先輩である安室さんに教わる運びとなった。

「というわけでなまえさん、よろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願いします。飲食店でバイトするのは初めてなので、色々とご迷惑をお掛けしてしまうかもしれませんが……」
「大丈夫ですよ。誰だって最初はゼロからのスタートですから。それに僕が手取り足取り教えて差し上げますから、肩の力は抜いて気楽に行きましょう」
「ありがとうございます」

 前からこの爽やかな笑顔には見慣れていたはずなのに同じ店員同士になったからか、それだけで一気に距離が近付いたような気がして以前とは違う胸の高鳴りを密かに感じていた。

「では早速……まず器具の簡単な説明からしますね」
「はい」
「うちではネルドリップとフレンチプレスの二種類を使い分けてコーヒーを淹れてます。まずネルドリップというのは紙ではなく布のフィルターを使って抽出する方法で――」

 そう言って器具を指しながらひとつひとつ丁寧に説明してくれる。初めて聞く用語ばかりで、とにかく聞き逃さないようにとメモを片手に言われた事を書き留めていく。
 必死にメモを取っている間、書き終わるまで待ってくれる安室さんは本当に優しくて気が利く人だと思う。女性のお客さんに人気なのも頷ける。しかし同時に安室さんに教えてもらっているこの状況は果たして大丈夫なのだろうかと不安がよぎる。開店前とはいえこんなところを女子高生に見られでもしたら――

「――とまあ一通りの流れはこんな感じです。……なまえさん?」
「ひゃい!」

 呑気にそんな事を考えていたせいで様子がおかしいと思われたらしく、安室さんに突然顔を覗き込まれた。驚いた拍子で変な声を出してしまった。恥ずかしい、恥ずかしすぎる。勤務中に余計な事を考えるなんて何をしているんだ私は。新人なんだから今日で全部頭に叩き込まなきゃいけないというのに。

「はは、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。僕もいますから。百聞は一見にしかず、という事でとりあえずやってみましょうか」
「わ、わかりました」
「じゃあまずはネルドリップで淹れてみましょう」

 そう言うと安室さんは手際よく器具を用意してくれた。準備は完璧。あとは私が先程安室さんが見せてくれたように淹れればいいだけ。頭の中では何となくシミュレーションは出来ている。
 しかし初めてという事に加え、すぐ隣で安室さんが見守っているこの状況。緊張しないはずがなかった。メモを見ながらにしても走り書きをしたせいでところどころ読めないし、何より安室さんの視線が私に集中しているというだけで説明された事が吹っ飛んでしまっていた。
 とはいえ、何とかお湯を注いだところまではこなせた。問題は淹れ方だ。確かのの字を描きながら三回に分けて淹れて、この時フィルターにお湯が掛からないように注意して……

「あっ……!」

 頭では理解してたつもりだったのに。緊張のあまり手元がふらついてしまい、案の定フィルターにお湯が掛かってしまった。

「ご、ごめんなさい……!」
「大丈夫ですよ。僕も最初は失敗しましたし。フィルターにお湯が掛からないように淹れるのってなかなか難しいんですよね」

 安室さんは笑みを浮かべて言ってくれたけど、さすがに何度も失敗するわけにはいかない。次は気を付けてやらなきゃ。
 気合いを入れ直して「もう一回やらせて下さい」と安室さんに言おうとした瞬間、突如背後から褐色の両腕がするりと伸びて来た。何が起きたのかわからないまま、安室さんの手が上から重ねられる。

「!?あ、安室さん!?」
「こういうのは感覚を掴むためにも、体で覚えるのが一番効率的かなと思いまして」
「そ、そうかもしれないですけどだからといってここまでしなくても……!」

 見られていただけでミスをしていたんだ。こんな状況ではなおさら頭に入るわけがない。

「ダメですよ、なまえさん」
「ひゃっ、」

 隙間なく密着している背中からは安室さんの体温が直接伝わって来て、耳に直接響いてくる甘美で透き通る声は私の鼓動を大きく跳ね上げる。顔が見えないから本当のところはわからないけど、何となく楽しそうに聞こえるのは気のせいか、それとも私が単に考えすぎなだけなのか。

「暴れたら火傷してしまいますよ」
「……すみません……」

 至極ごもっともな事を言われてしまえば反論する余地もない。けれど正直こんな風に後ろから抱きしめられるような状況に気が気でないし、ましてや身動きひとつ取る事も出来ない。硬直したままの私はされるがままに安室さんにドリップポットを握らされてしまった。

「コツは腕全体で淹れるのではなく、脇を締めて手首で小さく円を描いて淹れるんです」

 骨張っているけれどすらりとした手が視界を埋める。私の手をすっぽりと包み込めるほどの大きな手に、いやでも異性だという事を感じさせられてしまう。恥ずかしくて見ていられない。今の私はこの胸の高鳴りが聞こえないようにと平静を装う事で精一杯だ。
 ふわりふわりと鼻に抜ける淹れたてのコーヒーは、苦い香りを漂わせているのになぜだか酔いしれたような感覚に陥らせた。

「こんな感じで」
「か、感覚は掴めました、ありがとうございます!なのでもう、大丈夫、です……」

 これ以上は本当に心臓がもたない。正直一回だけで体が覚えたかと言われたら答えはノーだ。しかし解放してくれる気配がない。後ろを向く勇気もないので視線を正面に向けたまま答えれば、少し間をおいて「では忘れないうちにもう一回やってみましょうか」という声とともに触れ合っていた部分に風が通る。思っていたより早い解放に拍子抜けしつつも安堵のため息が素直に漏れた。

「はい……頑張ります」
「失敗せずに淹れられたら一旦休憩にでもしましょう。なまえさんなら大丈夫」

 振り向けば柔らかな笑みを浮かべる安室さんと目が合う。それは初めて来た時と同じように見えるけど、でもどこか違う気もして。それは未だに鳴り止まないこの胸の鼓動と芽生え始めた想いが証明していた。


2018/05/16
title:まばたき

後輩店員の夢主が安室さんにコーヒーの淹れ方を教わるもドキドキして頭に入らない話

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