ほろ苦いクーベルチュール
元々恋愛にはあまり縁がなかったが、組織に入った事でその縁はさらに遠くなった。そもそも毒薬を作っているような人間に、そんなときめきは必要ない。
けれど不覚にも、同じ組織内のバーボンに恋をしてしまった。それだけならまだ良かった。――彼は純粋な組織の人間ではない。確証はないが、多分どこかのスパイだという事を薄々感じていた。だからこの気持ちに戸惑っていた。
(バーボンがバーボンだったら良かったのに……)
ラボの屋上で冷たい風に吹かれながら、手にあるラッピングされたチョコを見つめる。好きになった彼が"バーボン"であったならこんなに悩まずに自然と渡せたのに。彼とは住む世界が違う私に、これを渡す資格はきっとない。……なんて言いつつもちゃっかり用意している自分に自嘲する。
「コードネーム、上着も着ないで何してるんです?風邪引きますよ」
「バーボン……」
不意に聞こえた声に視線を移せば、バーボンが「捜しましたよ」と言いながらこちらに向かってくる。その優しい言葉はバーボンとしてなのか、それとも名も知らない本来の彼の本心なのか。
「何かあったの?」
「ジンが今回の任務で、完成した薬の効果を試したいと言ってまして……コードネームを捜しに来たんです」
「そう……。ごめんなさい、すぐ行くわ」
「別に急がなくても平気ですよ。任務までまだ時間はありますし」
そう言っておもむろに上着を脱いだと思ったら「これ着て下さい」と上着を手渡される。「もう戻るから平気よ」と返そうとしたが、バーボンは何も言わずにそのまま私の横に立って壁に背を預ける。それを見て彼がしばらくここに留まる事を察した私は、バーボンの温もりが残る上着を複雑な気持ちで見つめた後、言う通りにそれを羽織って同じように背を預けた。
「ところでそれ……誰かにあげるんですか?」
「え?」
「今日はバレンタインなので……」
「ああ……、まあ、そのつもりだったんだけど……やっぱりやめる事にしたわ」
バーボンの顔が見れなくて俯きながら言う。バーボンだって潜入捜査でこの組織にいるのだ。そんなところにいる女にチョコを渡されても迷惑でしかないだろう。本音を隠すように「それに毒入りチョコだしね」と冗談を貼り付ければ、「笑えない冗談はやめて下さいよ」とバーボンは苦笑いをする。
「コードネームが言うと冗談に聞こえませんから」
「あら、褒めてくれてるの?科学者冥利に尽きるわ」
「あなたは組織内でも優秀な人ですからね」
「……バーボンもね、」
あなたのそういうところを好きになったのよ、と心の中で囁いて力ない笑みでバーボンを見る。……出会った場所がここではなかったら、今頃何のしがらみもないありきたりな恋が出来ていたのかな。
「……一応、これでも本命のつもりだったの」
ぽつりを呟くも、"コードネーム"として"バーボン"相手にあげるのなら本命とは言えないだろうか?と脳内で自問自答する。
「それなのに渡さないんですか?」
「本命、だからよ。……彼の事を考えたらやっぱり渡せないわ。住む世界があまりにも違うし」
「……じゃあ僕がもらってもいいですか?」
ふと微笑むその顔に言葉が詰まる。いいも何も、バーボンにあげるために用意した物なのだ、断る理由も拒否する理由もありはしない。むしろその言葉を口実にして渡してしまいたい。
「普段はあまり食べないんですが、結構甘いもの好きなんです」
「久しぶりだったら胃もたれ、するかもしれないわよ?」
「バレンタインですし、たまにはそれも悪くないかもしれません」
口角を上げて柔らかく微笑むバーボンを見たら、とても「あげない」とは言えなかった。自分の立場は十分過ぎるほど理解している。隣にいる彼だって組織にいるために演じているだけで、本当は何かもが偽者なのかもしれない。それでも、私は彼が好きなのだ。
「……毒入りでもいいなら、あげる」
結局バーボンの言葉に負けた私は、脆く崩れ去った理性とともにそれをバーボンに渡した。
バーボンは冗談めかして「では毒味と称していただきますね」と伝わる事のない想いが詰まったそれをぱくりと口に入れる。
「ん……、美味しいです」
「……そう」
「ありがとうございます。……お返し、楽しみにしていて下さい」
そう言って微笑んだ彼に胸がきゅっとなる。でも、その言葉の真意がわからない。ただのお礼ではなく、まるで最初から私がバーボンにあげる事をわかってたみたいな言い方……。
「……それはどういう意味なの……?」
まさかあえて知らないふりをして受け取った……?スパイだと私に気付かれてる事や私の想いも何もかもわかった上で。……可能性ならいくらでもあるし、鋭いバーボンならあり得る事だ。
「てっきり僕のために作ってきてくれたんだと思ってたんですが……」
「え、」
「僕の自惚れでしたか?」
そうして微笑む顔は何もかも見通した顔で。……やっぱり気付いてたんだ。
それを知ったら、今まで悩んでいた事が何だか急に無意味なものに思えてきて。一気に肩の力が抜けた気がした。
「……自惚れなんかじゃないわ」
もうどうにでもなれという思いでそう告げれば、バーボンは安堵したように短く息を吐いて「良かった」とこぼす。それからそっと腕を引かれ、そのまま包み込むように抱きしめられる。
バーボンの腕の中が妙に暖かく感じるのは外気に晒された体が冷えてるからか、それとも私自身がそれ以上に熱いからか。……なんて、望みが叶った今、そんな事はどうでもいい。
「コードネームの考えている事は何となくわかります。確かに僕はバーボンであってバーボンでない。でもだからといって、自分の気持ちを抑える事はないんですよ。人を好きになってはいけないルールなんて、どこにもないんですから」
「……バーボンはそれでいいの?」
「君が組織の人間かどうかなんて関係ない。僕は君が好きだ。コードネームを含めた、君自身が」
「バーボン……」
その言葉に今までにないくらい心臓がすごくドキドキしてるのが自分でもわかる。嬉しくて、恥ずかしくて、温かくて、どうしようもなくバーボンが好きだと思わせられる。こんな気持ちになったのは初めてだ。
「難しく考える事はないです。同じ気持ちなら、それでいいじゃないですか」
「……恋って、そういうものなのかしら」
「そういうものですよ」
バーボンが言うならそうなのかもしれない。そう思う事にしよう。
ふふっ、とバーボンからは見えないところで頬を緩めた後、温もりを感じるように彼の肩に顔をすり寄せて目を閉じた。
(本当の名前を知ったその時は、もう一度ちゃんと気持ちを伝えるから)
2016/02/10
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