ミッドナイトブルーの海に沈む
「スコッチがスコッチだったら良かったのに……」
そう呟いた声は自分でも驚くほど震えていて、しかしそんな余韻に浸る暇もなくあっという間に風とともに儚く消えていく。涙で滲む視界の先には大好きな彼が立っていて、その瞳は真っ直ぐに私を見据えるもどこか憂いを帯びていた。……どうして、どうしてスコッチがそんな顔をするの。
惹かれ合った時は運命だと思った。組織内では彼は他のメンバーとは少し変わっていて、組織の人間とは思えないくらいに心優しい人だった。結果そうではなかったからあれは演じていたのだろうけど、全部が全部嘘だとも思えなかった。
任務の時こそ真剣な表情をしていたけど、二人でいる時の彼はとても穏やかに笑い、優しい手つきで私に触れ、時に甘い囁きをくれる――そんな彼が私は本気で好きだった。……いや、"今も"だ。
でもそれは所詮かりそめの夢にすぎなかった。
「今までのあなたは全部嘘だった……?」
「……ああ。幹部である君に接触すれば少なからず何かしらの情報が手に入ると思った。事実、その通りになった」
はっきりと告げられた真実に自嘲的な笑みがこぼれる。ならば私は今まで誰に胸を焦がしていたのだろう。その上ただいいように利用されていただけだったなんて……バカみたいだ。なのに湧き上がってくるのが怒りではなく胸を刺す痛みだけとは情けない。
「つまり最初から私の事なんて何とも思ってなかったって事か。女なら誰でも良かったんだ」
独り言のように呟いたそれと同時に、潤んだ瞳からこぼれ落ちた滴が地面に模様を作っていく。
本当なら彼がスパイだったという事を組織に報告し、私がこの手で始末出来たら良かった。組織を裏切り、私を裏切った最低な奴だと躊躇いなく引き金を引けたらどれだけ良かったか。でも、そんな彼に胸が苦しくなるくらい溺れてしまった今の私にそんな事が出来るはずもない。ここにいるのは、私情で埋め尽くされて『裏切り者は始末する』という任務すら遂行出来ないただの女だ。
「ごめん」
「っ……、だからどうして、どうしてスコッチがそんな顔して謝るの?そんな顔、しないでよ……。いっその事バカな女だって思いっきり嘲笑ってよ!じゃなきゃ私っ……!」
「スコッチの事忘れられないよ」――心の中で叫んだそれは、言葉にする前に喉元でつっかえてそのまま消えた。そもそも忘れる気なんて最初からない。こうなった今でも離れられなくて、繋ぎとめたくてどうしようもないのだから。
どうあがいても私たちが結ばれる事はない、黒に染まる私が白の世界にいるスコッチと本物の恋人同士になれる日は来ない、そんな事わかってる。わかっていても、それでも彼が欲しい。――私はもう理性を保っていられないくらいに強い想いにとらわれていた。
ゆっくりと彼に近付き、たくましい首に腕を回して強引に唇を奪う。こんな事をしても何も変わらないとわかってるのに、それでも溢れだす想いは止まらない。もう、自分で自分を止める事が出来なかった。
スコッチの意思も無視して何度も何度も口付ける。悲しい、苦しい、痛い、辛い――そんな思いを押し付けるように必死で、呼吸の仕方さえも忘れるほどにただ夢中で。これで少しでも気が変わってくれたらいいのに――なんて、私の腕を掴むスコッチの手の力強さに淡い期待を抱きながら。
「っ、はぁ、」
「……好き、スコッチ……大好きなの」
荒い呼吸をくり返しながら至近距離で目を合わせれば、スコッチは苦しげな表情を浮かべて私を見つめる。
「……やめてくれ、コードネーム」
「嫌……」
「頼むから、やめてくれ……!」
「嫌!……私、スコッチの事は組織には報告しない。だから……!」
「そんな事をすれば遅かれ早かれコードネームも殺される!」
「スコッチがスコッチでいられるのならそれでも構わない!離れたくないの……」
本当の名前を知らなくてもいい。偽りの感情でもいい。少しでも長く一緒にいられるのなら。
「っ……」
「私とあなたは組織の中でしか繋がる事が出来ないから……だからお願い、行かないで……。嘘でもいいから私を好きになって」
悲痛な叫びを訴えるようにスコッチに縋りついて懇願するも、頭上から「ごめん」と小さく漏らした一言が聞こえてくるだけだった。一体この「ごめん」に何度胸を抉られればいいのだろう。
「それはもう、出来ない」
「っ、」
「でも、ありがとう」
そう言って眉を下げて悲しそうに笑うスコッチに言葉が出なかった。何で「ありがとう」なの?私にはその真意がわからないよ……。
何も言えないままスコッチの服を掴んでいた手がするりと落ちていく。そのまま背を向け遠ざかっていく姿に、涙がとめどなく溢れだす。――彼が、遠くへ行ってしまう。そして多分もう会えない。そうして全てを悟った瞬間、立っている事もままならないほどの絶望と虚無感に一気に襲われた私はその場にうずくまってただ一人、時を忘れてしゃくり上げて泣いた。
――この日を最後に、それから彼が私の前に現れる事は二度となかった。
2016/05/25
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