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ありふれたやさしさで奪っていって

「例の組織の潜入捜査、決まったんですね」
「ああ」

国家を脅かす組織――正式名称は不明だが、構成員が黒の格好を纏っていることから通称『黒の組織』『黒ずくめの組織』と呼ばれている犯罪組織への潜入捜査に諸伏さんが選ばれた。
肉体を若返らせるというにわかには信じがたい毒薬を作り、政界やら芸能界と黒い繋がりをいくつも持っているらしい。如何せん情報の少ない案件ということもあり、共有される情報は僅かなものでしかない。とはいえ公安が担当する案件である以上、危険なことに変わりはない。正直、不安だった。

「素性がほとんど明らかになっていないこともあって長期間になるかもしれない」
「…………」

警察官であり公安である以上、常に死とは隣り合わせの日々だ。家族にだって仕事のことは明かせない。その上潜入捜査となればさらに過酷さは増し、精神的負担はどれほどのものか――同業であってもそのつらさは計り知れない。
そんな危険なことは出来ればして欲しくないのが本音だが、この職に就いている限りそれは避けられない。仲間としてはもちろんのこと、それ以上の感情が私の中にはあったから。こうして行動を共にし時間を積み重ねていくうちに、いつしか彼を失いたくないという想いが日に日に強くなってしまっていた。

「どうしてみょうじがそんな暗い顔するんだ。……なんて、本当は何となくわかってるんだけどな」

重い空気をかき消すように諸伏さんは優しい声色でそっと呟いた。
私が心配しているのは危険な組織へ足を踏み入れること以上に、彼の誰よりも他人を思いやるその優しさが仇にならないかということだった。
警察官たるもの正義感を持ち合わせている人間が大半だが、公安警察で優しさを持ち合わせている人間は少ない。それで人は救えても、国は救えない。だからこそ時に非情に、あらゆるものを犠牲にして今までやってきた。

「俺の心配、してくれてるんだよな」
「……諸伏さんがそうやって他人を気にかける度に、もっと別の仕事があったんじゃないかなんて思ってしまうんです」

なんて、口にしたあとすぐに自己嫌悪に陥る。こんなんじゃ警察官である諸伏さんを否定しているのと変わらない。誰よりも彼を尊敬し、誇りに思っているのは他でもない私だというのに、どうにも矛盾している。
公安警察にとって優しさは不要だと言いたいわけじゃない。ただ、彼のその生まれ持った性格、滲み出る思いやりを向けられる度に何もこの仕事でなくても良かったんじゃないかと、そんな風に思ってしまうのだ。命の危険とは無縁な職でその優しさだけを享受して、ひたすら恋焦がれる“もしもの世界”を私が夢見てしまうように。

「すみません……生意気なことを言いました」
「俺は昔から警察官になるって夢を持っててさ、他のことなんて考えられなかった。だから命を賭してでもやり遂げるって決めてるんだ」

意志の強さを表すが如く、鋭い眼差しで言われてしまったらもう何も言えなくなる。そして思い知らされる。私は彼の打算なき優しさ以上に、その内に秘められた真っ直ぐで熱い部分に惹かれたのだと。
訳もなく涙が零れそうになって、でも諸伏さんの前で泣くなんてしたくなくて、無意識に目の前に立っていた諸伏さんの腰に腕を回していた。ただただ俯いたまま彼の胸に頭を押し付ける。

「どうした?」

驚きと困惑が混ざったような、けれども私自身を気遣うその一言に強く胸が締め付けられる。
こんな風に恋人のように気安く触れたことは一度だってなかった。少なからず動揺するのも無理はない。それでも引き剥がそうともせずに両手を宙に彷徨わせたまま、諸伏さんは私の言葉を待っているようだった。

「私は、あなたを失いたくないです……」

こんなもの、ただのエゴでしかないことは百も承知だ。スパイだと露呈してしまえば最悪生きて帰っては来られない。そんなことはわかっている。わかっているのに。いつからか水面下で小さく揺れていた想いがついに口を突いて零れてしまった。

「……それは約束出来ないな」

今度こそ困ったように諸伏さんは呟いた。俯かせていた顔を上げて視線を合わせれば、ひどく苦しそうな瞳が私を捉えた。その奥に縁起でもない未来が過ぎり、たまらず一筋の涙が流れる。優しい手つきでそれを拭う彼の指先の温もりに、言葉にならない思いが音となって溢れ出た。
この仕事をしている以上、明日はおろか数時間先の未来だってどうなるかわからない。
だから期待などしてはいけないんだ。ならばいっそのこと、そのありふれた唯一無二のやさしさで私の未来を攫っていって欲しい――夢想するそれはきっと何よりも儚く、贅沢な願いであることに今はまだ気付きたくなかった。


2022/07/02
title:まばたき

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