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素直なくちびるはおいしいよ

(キスの日、ねぇ……)

SNSに流れてくる情報で今日が『キスの日』だと知るとは、我ながら些か関心がなさすぎだなと笑ってしまう。しかしその記念日に関心がないことと、行為自体に興味がないことは必ずしもイコールにはならない。それが許される相手がいれば、私だって少なからず欲というものはある。ただ自分から言えないだけで。
もしこの記念日に託けてそれが叶うのならば、たまには勇気を出してみるのもいいかもしれない。バレンタインを最たる例として考えたら不思議と言えそうな気がしてくる。奥手な私は世間の波に乗じて踏み出さないとそういったことは出来ないから。何かあった時の保険、とも言えるけれど。
スマホを閉じ、ベッドの上で仰向けになり深呼吸をする。景光くんはさっきシャワーを浴びに行ったけれどもう出てきた頃かな。
キスの日のことを考えていたら何だか急に緊張してきた。運良く歯磨きは済ませてあるし、状況的にはこれ以上なく完璧だ。あとはいかに自然に切り出せるか。

「シャワー借りたよ」
「お疲れさま。冷蔵庫にミネラルウォーターあるからどうぞ」
「ありがとう。なまえも飲む?」
「私はさっき上がった時に飲んだから大丈夫」

上体を起こし返事をすれば、景光くんは「そうか」とだけ答えて冷蔵庫からそれを取り出して戻ってきた。お風呂上がりで火照った体を落ち着かせるように喉を潤す景光くんに、上下する喉仏から唇に視線を移す。その横顔を眺めて無意識に唾を飲み込んだのは、これから起こるであろうことに対する緊張か、はたまた彼の色気にあてられたからか。いずれにせよ私の意識は景光くんに集中していた。

「やっぱりなまえも飲みたいのか?」
「え?」
「さっきから俺のことじっと見てるから。それとも他に何か聞いて欲しいことがあったりする?」

ペットボトルをテーブルに置いて景光くんは私の隣に腰を下ろした。
柔らかな笑みを浮かべ、優しい手つきで頭を撫でられる。思ったより早く本題に入ろうとしていることに心の準備が整わず、俯きながら彼の上着の裾に遠慮がちに触れた。

「あの、その……」
「うん」
「きょ、今日、キスの日なんだって」
「へぇ、そんな日があるんだ。知らなかったよ」
「うん。だから、その……」

そこまで言って口ごもる。だめだ、全然自然なんかじゃない。そしてはっきりと「キスしたい」だなんて口にするのは想像以上に恥ずかしい。
しかし人の気持ちに敏感な景光くんなら察してくれるはず。なんて期待を込めて、とっくに冷めているはずの頬に熱を感じながら視線を合わせれば、景光くんは優しさの中に悪戯っ子のような笑みを覗かせていた。

「最後まで言わなきゃわからないよ。……大丈夫。なまえが言おうとしてること、俺はちゃんと応えるから」

「だから言ってごらん」とあやすように言われれば照れも無意味なものになる。景光くんは私の言いたいことなんかお見通しだ。その上で、あくまで私の口から言わせようとしている。でもそれは決して意地悪なんかじゃなくて、彼なりの優しさなんだ。

「……キスしたい、」

裾を摘んでいた手に力が入る。赤面していることなどお構いなしに真っ直ぐ目を見て伝えれば、景光くんは「うん、よく出来ました」と微笑んで触れるだけのキスを落とした。
しかし意を決して紡いだというのに、思いの外あっけなく離れてしまったことに物足りなさを感じてしまった。純粋にもっとしたい、と。

「足りない?」

景光くんの言葉に小さく頷く。欲深いとでも思われてしまっただろうか。しかしここまで来て首を横に振るほど、私は謙虚な人間じゃないから。

「……もっとしたい。今度はもっと長くて、甘いの……」

胸の内をさらけ出せば、景光くんは「いいよ」と徐に私の手を握ってそのまま唇を塞いだ。
ゆっくりと角度を変えながらさっきよりも長く、深く。私の言葉通り、長くて甘くて、それでいて官能的で。強引に舌を入れて貪り尽くすような激しさはない。本音を言えばそれも少し気になるけれど。
唇から伝わる景光くんの想いに、私はもう充分すぎるほど満たされていた。
しばらくして離れ、色気の残る瞳が私を捉える。それから口許を緩めて、最後に額に優しくキスを落とした。

「髭、痛くなかった?」
「全然気にならなかったよ」
「そっか。実は当たったら痛いかなと思ってキスするの遠慮してたんだ」

「でも逆に不安にさせたかな」と景光くんは眉を下げて笑う。確かに当たる感覚はあるけれど、それが嫌だなんて思ったことは一度もない。むしろ愛らしいとすら思う。何より好きな人と――景光くんとするキスはあたたかくて気持ちがいいから。

「遠慮なんかしなくていい。景光くんのこと好きだから……これからはもっとして欲しい」

興奮冷めやらぬ状態で随分と恥ずかしいことを口走ってしまった。顔を見られたくなくて咄嗟に景光くんの胸に顔を寄せる。微かに聴こえる心音が少しだけ速い気がして、それが何だか嬉しくて、思わず口元が緩んでしまった。いつも大人の余裕で私を受け止めてくれる景光くんも緊張したりするんだ。

「あんまり煽るようなこと言わないで。大事にしたいから」

優しく抱きしめられ、困ったように景光くんは呟いた。その言葉だけでどれほど大事にされているのかが伝わってくる。ここでおねだりなんかしたらもっと困らせてしまうだろうか。
でもね、私の言葉も混じり気のない本心なんだよ。


2022/05/24
title:金星

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