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ほしい、なんてつぶやいた

「嘘でしょ……」

無意識に零れた一言は視界を埋める雨音にかき消されていく。
今日は午後から後輩の松田くんとともに聞き込み調査にあたっていた。現場から少し離れたコインパーキングに車を停め、数件の聞き込みをし、最後のお店を出てみればこの有様だった。
この時期の天気は変わりやすいとはいえ、ついさっきまで太陽が照りつけていた空が一時間も経たないうちに地面を濡らすほどの雨が降るとはさすがに思うまい。もちろん傘なんて持ってないし、歩きながら聞き込みをしていたせいでコインパーキングまで戻るにはそれなりに距離があった。
しばらく止むのを待つか、走って車まで戻るか――選択肢はあったものの、すでに私の中では答えが出ていた。

「にわか雨みてえだからしばらくすりゃ止むだろうが……」
「アプリだと早くても30分後だって」

隣で気だるそうに空を見上げる松田くんにスマホを見せて短く息を吐く。生憎この後も仕事は山ほどある。30分でも時間を無駄にはしていられない。

「本音を言っちゃあ止むまで時間を潰してぇところだがな。……走んぞ」
「りょーかい!」

軒下を飛び出し、走り出す松田くんの後を追う。申し訳程度に腕で顔が濡れないようにガードするも、実際出てみると思った以上に全身で雨を受けてしまいほぼ意味を成さなかった。地面を蹴る二つの足音に混ざって水が跳ねる。前がよく見えなくて、気付けば彼との距離が出始めて思わず声を上げた。

「待って!松田くん、足速すぎっ……!」

息も絶え絶えに彼の名を呼べば、通りがかった廃ビルの階段口で足を止めてくれた。少しして追いついたが、雨のせいもあって肩で息をするくらいには呼吸が乱れていた。

「お前体力なさすぎんだろ」
「はあっ、これでもっ、鍛えてるほうだと思うんだけどっ!」

刑事なんて体が資本みたいなものだ。それこそ被疑者と追いかけっこをしたり一晩中張ったりと体力がなければできないことも多い。だからと言って人間と天気を比べるのはまた話が違ってくるのだが。
同じ距離を、しかも私より速く走っているのに呼吸すら乱れず涼しい顔を向けられるとさすがに悔しくなる。けれど今はそれよりも雨の中走って汗ばんだ肌に、まとわりつく水気と湿気がとにかく不快で仕方なかった。びしょ濡れでないにしてもこうして直接雨を浴びるのは久々だったから。

「昨日の怠さがまだ残ってんのか?」
「勤務中にそういうこと、言うんじゃないのっ!」

膝に手を付きながら思わず睨みを利かせる。松田くんは「わりぃわりぃ」と微塵もそんなことを思ってないように口端を上げた。
しかし今の彼は水も滴るなんとやら――水気を払うように頭を振って髪をかき上げる仕草は、自然と昨夜の出来事を想起させられたことは言えるはずもない。
ようやく息が整ったところで少しでも不快感を逃がそうとジャケットを脱ぐ。カッターシャツのボタンを外せば、少しばかりの息苦しさから解放され、雨か汗かわからない雫が髪から首を伝って膨らみの隙間に流れていった。

「ごめん、少し休んでもいい?」
「しゃーねぇな。このまま車に戻っても濡らすだけだし……少しくらいなら遅くなっても文句は言われねぇだろ」

休憩に専念するかのように松田くんは階段に腰を下ろした。それから胸ポケットを漁るもお目当ての物がなかったらしく、不機嫌そうに舌打ちした。

「お前も突っ立ってないで隣座れば?」
「じゃあお言葉に甘えて……って、なんで松田くんがそんなに偉そうにしてるの。私の方が先輩なんだけど?」

唇を尖らせながらも言われた通りに彼の隣に腰を下ろす。
先輩後輩という関係ではあるが、恋人でもあるせいか彼の私に対する接し方はおよそ年上に向けるものではない。と言っても配属された当初からあまり変わらなかったような気もするけれど。

「ひとつしか変わんねぇだろ。そもそも体力なさすぎるお前が悪い。昨夜もすぐへばるし」
「あれは……!松田くんが離してくれなかったからでしょ」

言ってから彼の言葉につい乗ってしまったと気付く。別に付き合っていることを隠してるわけではないが、今は仮にも勤務中。職場で公私混同はするなとあれほど言っていると言うのに、まったくもって彼は聞き入れようとしない。今は二人きりだし、半ば諦めている私も私なのだけど。

「珍しくお前の方から求めてきたからな。据え膳食わぬは男の恥、だろ?」

意地悪な笑みを浮かべているのに乱れた前髪をかき分ける手つきは優しいから、それだけでもう何も言えなくなってしまう。口は悪いがこうして私に触れる手はいつだって思いやりで満ちている。本当にずるい以外に言葉がない。結局のところ仕事もプライベートもいつまで経っても彼に振り回されっぱなしだ。
前髪に触れていた手はやがて首筋へと移る。汗ばんだ肌に触れるそれに、再び昨夜の情事を重ね合わせてしまい思わず生唾を飲み込んだ。

「ここ出る時ボタン閉め忘れんなよ。痕、付いてっから」
「もう、付けないでって言ったのに……!」

眉根を寄せながら彼の手を掴めば、今度はぐっと腰を抱き寄せられて顔を近づけてくる。慌てて逆の手で制止すれば、心底不満そうな表情を向けられた。

「んだよ」
「だから勤務中だって言ってるでしょ。あとここ外だからね」
「こんな裏路地、人っ子一人通らねぇよ」
「そういう問題じゃありません。まったく、油断も隙もあったもんじゃないんだから」

彼の腕からすり抜けるようにして立ち上がる。
ジャケットも髪もまだ濡れているけれど、このまま止むまで雨宿りしていたら彼が何をしてくるかわからない。危うく雰囲気に飲まれて流されてしまうところだった。

「ほら、行くよ」

ジャケットを羽織って言われた通りボタンをしっかり閉める。濡れた服を再び着る不快感は予想以上だ。やはり早く戻らなくては。
無理やり立ち上がらせるようにして松田くんの手を引けば、未だ不服そうな顔をしていた。

「家に帰ったら陣平くんの好きにしていいから」

そんな彼を見ていたらなぜか私が悪いことをしたような気にさせられて、気付けば折れるようにして諦めに似た声を出していた。

「とか言って仕事を口実に言い訳してるだけで、本当はお前も最初からその気だったんじゃねーの?」
「意地悪ばっかり言ってるとお触り禁止にするよ」
「したところで俺が守ると思うか?」

思わない、と口にするより先にあれよあれよと壁に追いやられ、あっという間にキスで呼吸を塞がれてしまった。
雨で濡れた唇はいつもより興奮を高め、耳触りの良い雨音は正常な思考を鈍らせる。おまけに珍しく苦味のないそれはいつも以上に快楽を増幅させた。
何度か吐息を分け合って、ゆっくりと離れる。

「拒むどころか欲しがってんじゃねーか」
「……今日だけだからね。次からはTPOを弁えること。いい?」
「わぁったよ」
「よろしい」

首に回していた腕を解く前に顔を寄せ、今度は私から触れるだけのキスをしてやった。
この場では満足したらしい松田くんはそれ以上は求めて来ることはなく、それから鈍色の空を一瞥した。

「まだ止みそうにねぇな。なまえ、あと少し走れっか?」
「うん、休んだから大丈夫」
「んじゃ行くか」

手を引かれたと思えばそのまま走り出した。今度は離れないようにと私のペースに合わせて。
ああ、と背中を見つめては思い知る。私が彼を求めるのはまるで衣服に染み込んでいく水滴のようだ。一度濡れてしまえば乾くまで消えることはない。口では何を言おうと、深く求めているのは私の方なんだと。
未だ雨は止まない。けれど繋いだ手から伝ってひとつになれば、濡れることなど取るに足らないことに思えた。


2022/05/07
title:金星
theme:雨宿り/昨夜の痕/意地悪

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