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マーガレット・ベイビー

ここ数年、誕生日なんてものはただ年を重ねるだけのイベントでしかないと思っていた。日常と何ら変わりはないと。
しかし数ヶ月前初めて訪れた喫茶店をきっかけに私の生活はゆっくりと、しかし確実に彩られていった。

「ふぅ……」

扉の前で深呼吸をする。
足繁く通っているのにいつになく緊張しているのは、扉の先に彼が確実にいるということがわかっているからだ。
数日前に訪れた際、勇気を出してさりげなく梓さんに安室さんが出勤するか聞いてみた。もちろん本人に直接聞く勇気はなかった。特に問いただされることもなくすんなりと教えてくれたのだが、きっと女子高生や女性のお客さんに同じように聞かれることが日常茶飯事なのだろう。私もそのうちの一人であるというのは寂しくもあるけれど、恋人がいない(以前女子高生の子たちが質問していた時に得た)という最重要事項だけで大いに救われているのもまた事実だ。
そうでなければ毎年誕生日に仕事をしていた私が、彼に会いに行くためだけにわざわざ休みなんか取らないのだから。

「いらっしゃいませ」

面接を受けるかのような緊張感の中、ドアノブに手を掛ければ心地の良いベルが店内に広がる。
出迎えてくれたのは元気いっぱいの梓さんで、その背後にキッチンに立つ安室さんを捉えた。「いらっしゃいませ」という言葉に軽くお辞儀を返す。その笑顔だけで、すでに私の心はどうしようもない想いで溢れていた。

「一番奥の席へどうぞ」

促された席に腰を下ろしてちらりとキッチンに視線をやれば、早々思いきり目が合ってしまい恥ずかしさのあまり慌ててメニューで顔を隠した。
コーヒーを入れる姿、料理をする姿、注文をとる姿、レジ打ちする姿、エプロン姿――ポアロという空間で彩られる安室さんに魅了されてからどうしたって視線が自然と彼に向いてしまう。自分でも驚くほどに、恋という甘酸っぱい想いは炭酸のように胸の中を刺激した。

「ご注文は何になさいますか?」
「レモンティーをお願いします」
「かしこまりました」

また目が合うと恥ずかしいので注文を待つ間スマホのネットニュースを見ていたけれど、当然のように内容なんてひとつも頭に入らなかった。

しばらくして「お待たせしました」という梓さんではない声に慌ててスマホを鞄にしまう。
テーブルに置かれたレモンティー。と、覚えのないもうひとつのそれに思わず声をもらした。

「あの、ケーキは頼んでないですけど……」
「こちらはサービスです。今日、お誕生日なんですよね?おめでとうございます」

そう言っていつもと変わらない甘い笑みを見せる安室さんに私は目をぱちくりさせることしかできない。常連を名乗る程度には通っているとはいえ安室さんとそう言った込み入った話はしたことがないし、そもそもそんな大それたことは考えないようにしていた。これ以上彼に対する想いが膨らんでいけば、もっともっとと欲深くなっていくことは容易だから。

「そう、ですけどどうして……」
「以前ご友人といらっしゃった時に話していたのを耳にしたので。良かったら召し上がってください。特別仕様なので、他のお客さんにはナイショで」

こっそりと耳打ちをされ、耳から伝わった熱があっという間に全身を駆け巡っていった。
誕生日を認識されるというだけでも充分すぎるほど嬉しいのに、その上ケーキまでサービスされるなんてまさに夢心地だ。

「ありがとうございます。とっても嬉しいです。安室さんに祝ってもらえるなんて……本当に夢みたいです」

目を合わせるのが恥ずかしくて俯いて口早に答える。視線の先に映るケーキには特別仕様らしくメッセージプレートがあしらわれていた。これを作っている間、安室さんの思考のほんの片隅を私という存在が埋めていたのだとしたら恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。おまけに特別仕様だなんて言われてしまったら食べるのがもったいないし、少なからず期待めいたものを抱いてしまう。

「ちなみにこの後のご予定は?」
「残念ながら特になくて……自分用に何かプレゼントでも買って帰ろうかなと」

安室さんに会いにポアロに来たことが今日のメインイベントだったから、その後のことなんて考えてもいなかった。すでにケーキまでサービスしてもらってこれ以上ない最高の誕生日なのだから。
口をついて出た自虐めいたそれに自分で言ってて悲しくなるが、その後の安室さんの言葉によってそれは覆された。

「でしたらこの後の時間、僕にいただけませんか」
「え?」

思わず顔を上げれば、安室さんの顔がそっと耳元を掠める。

「お祝いの言葉の他にも、伝えたいことがあるので」
「っ!」

囁くように再度耳打ちをされれば、今度こそ全身が茹だるような熱さに包まれる。きっと今の私は注文したこのレモンティーより熱くなっているに違いない。こんなことなら冷たいほうを頼んでおけば良かったな……と目眩のするさなかでぼんやりと思った。
そんな風に言われてしまったら、ケーキより甘い吐息を聞いてしまったら。私はもうたったひとつのことしか考えられなくなってしまう。

夢にまで見たあなたのことを、独り占め出来るんじゃないかって。


2022/05/02
title:まばたき

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