メルト・メルト・ダウン
それはあまりにも自然で、まるで日常の一部のように溶け込んでいた。
「わざわざお休みの日に付き合わせてしまってすみません」
「いえ、新作メニューの試食と言われたら断る理由がないですから。それにタダで安室さんの料理が食べられますしね」
「そう言ってもらえると助かります」
周辺のお店が開き始めた頃、ポアロの扉には『CLOSE』の札が掛けられたままだった。
なぜ今日非番の私がわざわざ出向いたのかというと、安室さんが新作メニューの試作を作るということでその試食を頼まれたからだ。本当は梓ちゃんも来る予定だったけど用事が入ってしまったとかで私だけになった。
普段は外の様子が見える大きな窓ガラスもカーテンを閉めているせいでわからない。ただ、柔らかな陽射しが隙間から射し込んでいた。
今から何品か作るらしいからお昼にちょうどいいかもしれないな。そんなことを思いつつも、ただ出来上がるのを待っているだけでは手持ち無沙汰のため、荷物を店内に置きエプロンを着けながら安室さんの立つキッチンへと足を踏み入れた。
「サポートしますよ」
「ありがとうございます」
「ちなみに何を作るんですか?」
「カルボナーラとマリトッツォをポアロ風にアレンジしてみようかと」
「いいですね。楽しみだなあ」
そんなやりとりをしながら手を洗い、食材や調理器具の準備をする。
店の外から聞こえる雑踏が二人だけの店内を包み込む。米花町は事件だなんだと起こりやすい街だと言われているが、そんなことを感じさせないくらい外も店内も穏やかな空気が流れていた。
「それでは始めていきましょうか」
◇
そうして調理を始めていくらか経った頃。
私は食材を切ったり使った調理器具の洗い物などの手伝いをしながらフライパンを振るう安室さんを眺めていた。
彼のこの姿は一緒に仕事をしていて見慣れたものだけどやはりいつ見ても様になっている。カウンターやテーブル席からも見えないこともないが、隣で間近で見られるというのは店員としての特権かもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていればカルボナーラの良い香りがふんわりと鼻に抜ける。どうやらもうすぐ完成するみたいだ。
カウンターを拭いたり二人分のフォークを用意したりして出来上がりを待つ。あ、そういえばこの間マスターが知り合いの方から苺をもらったから良かったら食べてと言ってたっけ。
盛り付けをしている安室さんを横目に、それを取り出そうと冷蔵庫を開けるが色々と食材が詰め込まれていてなかなか見つからない。
「何か探し物ですか?」
「この間マスターが苺の差し入れしてくれたのを思い出して。奥に追いやられちゃったかな……」
ガサガサと漁っていれば、不意に安室さんが隣に近付いて冷蔵庫の中を見渡した。
「あ、あそこにありますよ」
「え、どこですか?」
「ほら、三段目の右奥です」
「あ、ほんとだ。やっぱり奥にやられちゃってたんだ」
「気付かなかったらせっかく頂いた苺を腐らせてしまうところでしたね」
「そうですね――」
言われた通りの場所からそれを取り出し、安室さんのほうへと振り向けば、隣で屈んで見ていたせいか至近距離で視線がかち合う。
こんなシチュエーション今まで何度もあった。だから今日もそのまま何事もなく過ぎると思っていた、のに。私を見つめてくる安室さんからどうしてか目を離すことができなくて、いつの間にか見つめ合うような形になってしまった。時間にすればたった数秒だっただろう。けれどその時ばかりはまるで時が止まったかの如く長く感じられた。
気が付けば近付いてきた彼の唇を何の疑問も感じることなく受け入れていた。
唇が離されたと同時に冷蔵庫の扉がぱたんと閉められる。
「苺、洗っておきますね」
「え、ああ……ありがとうございます」
それから何事もなかったかのように安室さんは私の手から苺を攫っていった。そんな彼の姿を私はただただ呆然と眺めていた。
何の前触れもなくキスされたことに驚かなかったわけじゃない。けれどそれ以上に流れが、その後の安室さんの態度が、あまりにも自然すぎてそれに対して私は驚いていた。あの出来事は夢か幻かと思わされるほどに。
なんで?どうして?なんて理由を問いただす気は最初からない。予感がしていたのだ。
キスされるかも、と感じた瞬間に迷うことなく受け入れたことが私の想い――答えのようなものだから。もしかしたら安室さんもそのことに気付いていたから、特にこうして何かを言ってくるわけでもないんだろう。
「なまえさん、いつまでぼーっとしてるんです?冷めないうちに食べて意見を聞かせてください」
安室さんは微笑んで席に座るように促した。
しかし未だ心ここに在らずな状態の私にまともな意見なんて言えるはずもなかった。
2022/04/17
title:金星
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