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眠れない夜は僕を呼んで

就職を機に一人暮らしを初めて早三年。仕事も生活も滞りなく順風満帆な日々を送っていた。
今日は待ちに待った金曜日。もちろん明日は休み。滅多にない残業に疲労感を感じつつも、スーパーで購入したお酒とおつまみセットを手に帰路につく足取りは心なしか軽かった。
アパートが近づいてきたところでふとベランダに目をやる。今日はいるかな。ささやかな期待をしながら自室の隣に視線を向ける。煙草を吹かしていた彼がこちらに気づいて柔らかな微笑みとともに手を上げた。それだけで疲れなんて吹っ飛んでしまう。彼の笑顔の癒し効果は偉大だなぁ、なんて思いながら気恥ずかしくも小さく手を振り返してエントランスホールへと足を踏み入れる。

彼――諸伏さんとはいわゆるお隣さんという関係で、つい半年ほど前に隣に越してきた。愛想が良くて話しやすくて、短い時間の中で私はすぐに打ち解けた。
そしていつからか、私が帰宅する時間にはいつもベランダにいて帰りを待っていてくれるようになった。きっと自惚れかもしれないけど、構わない。こうして姿を見られて、たまにベランダ越しに他愛もない話をする。それが私にとってささやかな幸せだから。
けれど諸伏さんは仕事柄家を空けることも多いらしく、気がつけば一週間、一ヶ月以上会わないこともあったりした。今回は二週間程だったけれど、それでもこの胸に広がっていく感情は久しぶりだった。
寂しい――そう感じた時、私は彼に特別な感情を持っていることを知った。

湯船にお湯を張っている間、部屋着に着替えておつまみセットを手に小走りでベランダに出る。覗き込むようにして身を乗り出せば「お疲れ」と心地よい声音が鼓膜を揺らす。

「お疲れさまです」
「今日は残業だったの?」
「そうなんです。でも明日休みだと思ったらそんなに苦じゃなかったです」

それにこうして諸伏さんと会えたし。声には出さずに心の中でそっと付け足す。

「そっか。でもあまり無理はしないようにな。……とりあえず乾杯するか」
「はい」
「乾杯」
「乾杯」

缶チューハイを小さくぶつけ合えば汗をかいた雫が指先から弾ける。勢いよく呷れば、乾いた身体に潤いが染み渡っていく。
閑静な住宅街に流れる柔らかな時間。安らぎ、癒し。力が抜けてほっと息が漏れた。

「あ、そういえば前に借りたDVDまだ返してなかったよな。ごめんな」
「いえ、別に急ぎではないのでいつでも大丈夫ですよ」
「最近仕事が忙しくて見る時間が取れなくてさ。これ、お詫びと言っちゃなんだけど」

スッと伸びてきた手にはお酒にピッタリな肴。「材料がなくて簡単なものしか作れなかったけど」なんて苦笑いしてるけどそれは謙遜だ。面倒くさがりな私からしたら、有り合わせでパッと作れてしまうこと自体がそもそもすごい。
どうやら今日はスーパーのおつまみの出番はなさそうだ。お礼を言いながら、添えられた爪楊枝で早速頂く。うん、諸伏さんの手料理はやっぱり美味しい。
心を掴まれ、胃袋をも掴まれ。これを“ただの隣人”という言葉で片付けてしまうにはどこか物足りなさを感じてしまう。いつからこんなに欲張りになってしまったんだろう。諸伏さんにとっても私の存在が“そう”じゃなきゃいいのに。

「今回は結構長かったですよね。泊まり込みとかですか?」
「まあそんな感じかな」

どんな仕事をしているのか詳細は聞いたことがないけれど、いつも同じ時間に帰ってきてるわけでもなさそうだし、何となく聞いてはいけないオーラのようなものを感じていた。
プライベートを深く探る気はない。でも心のどこかで見えない距離があることを少し寂しくも感じていた。仲良くなれたと感じていたのは私だけだったのかな、と。

「寂しかった」
「えっ?」
「長いことみょうじさんに会えなくて寂しいと思った」

一瞬、心を読まれたかと思ってドキリとした。とはいえ、その言葉が持つ意味に心臓をドキドキさせていることに変わりはないのだけど。むしろ同じ気持ちだと思わせるそれに心をかき乱されてしまっている。

「仕事してる時にふとみょうじさんの顔が浮かんでさ。何でもいいからみょうじさんの話聞きたいなー、話したいなーって」

夜空に向かって呟くように、何かに思いを馳せるように。諸伏さんはつらつらと言葉を吐き出した。その横顔は何だか寂しそうで、でも美しくて。火照った頬を冷ますように、ひんやりとした風が全身を掠めていく。

「そういう風に言ってもらえて、う、嬉しいです」

早口で無難な返しをすれば、諸伏さんはそっと微笑んで「いっぱい食べて」とお皿を差し出してきた。そのまま爪楊枝を刺し、腕を引こうとした時――

(え?)

徐に手首に温もりが巻きついた。アルコールを摂取して間もないのに、突然のそれに思考が上手く働かない。諸伏さんが私に触れている――これは夢……?
何も言えずに、しかし起こっている状況に心臓を跳ねさせるだけだ。強張る体とは裏腹に握力は緩み、手にしていたおつまみはお皿の上に戻っていった。
「ごめん」口では謝罪を述べるも離してくれる様子はなく、むしろ真っ直ぐと見つめられる瞳に引き寄せられていく。
触れた先から熱が駆け巡る。ごくり、と生唾を飲み込む音が耳を刺激する。

「本当はずっとこうしたいと思ってた」

その時、私の中で何かが弾ける音がした。
――ねぇ、今からこの壁を飛び越えてもいいかな。


2020/06/08
title:金星

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