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ムーンライト・ロマンス

月が主役になる頃、人工的な明かりの元では二つの無機質な音が広い室内に響いていた。
かれこれ何時間だろうか。気が付けば空は茜色から漆黒へと変わり、おまけに適当な時間に適当な食事を済ませてしまったため時間の感覚すら曖昧になっていた。
区切りのいいところで長い間にらめっこしていた画面から腕時計に視線を移せば、まさに日付が変わろうとしていたところだった。その事実を知った瞬間、気が抜けて思わず欠伸が出かけたが、視界が捉えた人物に慌ててだらしなく開きかけた口元に手を当てる。しかし斜め前に座る彼は気付いていないようで、ひたすら真剣な表情で画面と向き合っていた。

「無理はするな」

――どうやら気付かれていたらしい。降谷さんの視線は、なおもパソコンに向けられている。しかしその一言は私の心を癒すには充分だった。柔らかい声色が張りつめていた心に輪を描きながら染み渡っていく。
仕事に関しては自分にも他人にも厳しい人であるけれど、それ以上に部下である私たちのことも気遣ってくれる。そんな彼に上司としての尊敬はもちろんのこと、異性としての魅力を感じるのは必然だった。普段は考えないようにしているけれど、集中力が切れた今、その真剣な横顔は私を扇情的にさせる要素でしかない。
月が陰る――まるで私の気持ちを代弁したかのようなそれをごまかすように、降谷さんの言葉に大丈夫です、と返した。
煩悩を打ち払うように打鍵を再開すれば、ふと肩に温かい重みがかかる。

「室内と言えど夜は冷える」
「ありがとう、ございます……」

与えられたジャケットから降谷さんを見やれば、休憩とでも言うように息を吐きながら不意にネクタイを緩めた。その何気ない仕草に私の心臓は大きく音を立てて鳴く。優しさに心をときめかせながら、時折見せる異性としての魅力に心を奪われてしまう。静まり返った空間で息を飲む音がやけに大きく感じてしまったらもう――これ以上二人きりでいたらきっと私は仕事どころではなくなってしまう。

「これ、この前の捜査報告書か」

しかしそんな私を一層煽るかのように、背後に立っていた降谷さんが顔を近付けてきた。耳元で響く声に反射的に肩を震わせながら降谷さんを横目で見れば、「よくまとまってる」とスクロールさせながら感心を口にした。――その顔だ。その真剣な横顔が、私の胸を高く跳ね上げる。好き、と自然と口から出そうになるのを飲み込んで「ありがとうございます」と返せば、画面を見ていた目がこちらに向けられた。

(顔、近い……)

相変わらずいつ見ても整った顔をしている。間近で見ると思った以上に心臓に悪い。
今日の私の鼓動はいつになく働き者だ。薄暗く、静まり返る室内で、想いを寄せている彼と二人きり。私の一方的な想いのはずなのに、ただの上司と部下のはずなのに、私を見つめる瞳が何かが起きることを予感させる。
一緒に仕事ができるだけで充分なのは本心なのに、そこに妙な期待を持ってしまうのはなぜなのか。それはふとした時に見せる、上司としてではない降谷さんがそう思わせることをきっと私は心のどこかでわかっていた。それが今なのかもしれないことも。互いの瞳に映した姿が消えないことが答えのようなものだった。

ゆっくりと近付いてきた熱を私は素直に受け入れた。その温かさと柔らかさに自然と力が抜けていく。静寂の中で耳を刺激する小さな吐息が、ここが公共の場であるというスリルと背徳感を一層高ぶらせた。

「っ、……誰かに見られでもしたら、」
「受け入れておいて何を今更」

図星をつかれて思わず視線を落とす。まるで最初から私の気持ちをわかっていたかのような言動は、どうやらいつもの上司としての降谷さんではないらしい。本当の彼は案外意地悪な人なのかもしれない。
誰もいないはずだとはいえ、庁内のオフィスで人目も憚らずにキスをしたことに急に羞恥心が襲ってきた。二人きりのこの状況がなんだか気まずい。何でもいい。適当に飲み物を買いに行くとでも言って一旦ここを出よう。

「ちょ、ちょっと飲み物でも買ってきます」

肩に掛けられた温もりに名残惜しさを感じつつも降谷さんに返そうと立ち上がれば、手を取られてそのまま流れるように背をデスクの方へと追いやられてしまった。逃げようにも逃げ道がない。射抜くような視線に、私の鼓動を落ち着かせてはくれないことを悟る。

「たまには素直になったら?」
「……だめ、」
「フッ、まだまだだな」
「ん……」

本音を隠すなら徹底しろ、とでも言いたいのか。そんなことをぼんやり考えていれば、再び口を塞がれる。伸びてきた手は腰を抱き、頭を固定するようにして手を添えられる。啄むように何度も何度も。角度を変え、徐々に深くなる熱を共有する。疲れた体に与えられる甘美なる誘惑に、持ち直していた理性が一気に崩れそうになる。
柔らかい唇、甘い吐息、捉えて離さない濡れた瞳。ああ、もうこのまま月とともに攫われてしまいたい、なんて。

「……続き、する?」

わざとらしく耳元で囁く降谷さんを見れば、挑発するかのような笑みを浮かべている。そんなこと聞いておきながら答えは最初からひとつしかないってこと、わかってるくせに。翻弄されていると思ったらちょっとだけ悔しい。仕返しになるかどうかわからないけど――
緩められたネクタイを自分の方へと引き寄せ、余裕綽々とした降谷さんを黙らせる。はらり、彼の上着が机上の資料を覆う。私の予想外の行動にさすがに少しは驚いてくれたか。

「……言わせないで下さい」
「そんな顔で言われてもね」

上がった口角はなおも余裕の表れか、宣戦布告か。夜はまだ明けない。


2020/05/15
title:まばたき

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