大口を開けて欠伸をしたら、みっともないと財前に怒られた。そうは言われても眠いものは眠いし、欠伸ってのは我慢もし難い。しょうがねえじゃん、と呟きつつ二度目の大欠伸をかまそうとしたら脇腹を思いっきりグーで殴られた。どすっとか何やら不穏な音で俺の脇腹を仕留めたその拳の持ち主は何もなかったかのような涼しい顔でさっさと歩き出した。
今回俺達は不動峰との練習試合のために遙々東京まで出向いていた。他のメンバーは久しぶりの東京に目を輝かせてあちこちを見ていたから俺の大欠伸には気付かなかったようだ。いやはや、財前は俺のことを良く見ているなあ。そんなに見られるとおちおち屁もこけないわけなんだが。三度目の欠伸はちゃんと口を手で覆って隠した。

行き交う人をちらちら観察しつつみんなで不動峰近くまで向かうバスに乗る。何せレギュラー陣だけの遠征のため公共交通機関を利用しやすくて良い。大人数でぞろぞろと移動、と言うのは何度体験しても面倒でしかなかったから。
まあそんなことはともかく。不動峰には千歳の友人の橘くんがいる。地味にその橘くんと会うことを楽しみにしていた俺としては、橘くんの人となりを知ることが今回の目当てだった。



「なあなあ千歳、橘くんって格好良いのか?」

「何ばい、いきなり」

「いや、ちょっと気になって」

「…俺の方が良か男ばい」

「へー」



とりあえず男前だという前情報は白石から貰ったからそれを信じておこう。千歳はほんと訳が分からないところで見栄を張る。これで橘くんの方がいい男だったら無駄に長いその足に蹴りを入れてやろう。怪我をしない威力で。
密かな期待を胸にバスに揺られ向かった先には目的の不動峰中学の門が。そしてその門の前にはユニフォーム姿の二人が確認できた。お出迎えなんてありがたいな、なんて思いつつもしかして片方が橘くんかもと思いが逸り、バスが止まった瞬間思わずラケットバックをしっかり掴むと同時に立ち上がっていた。
するとすかさず千歳が追って立ち上がり、バスを降りた瞬間何故か二人で競うような形で走り出していた。そして門の前、二人の学生の目前で足を止めた瞬間弾けるように俺達は言葉を発した。



「どっちが橘くんですか!」

「桔平!こいつは俺んもんやけん手ェつけるんじゃなかよ!」



綺麗に声はハモりつつも内容がまるで違う俺達の言葉に、二人はまず驚いて、それから苦笑して見せた。
そして恐らく橘くん本人らしき額に素敵ほくろがある少年が爽やかな笑みを湛えたまま俺に片手を差し出してきた。



「千歳から噂はかねがね聞いていた。初めまして、佐上」

「たたた橘くんだ!本物だ!」

「ははは、俺はそんなに有名人なのか?」

「調子に乗るんじゃなかよ桔平!佐上は俺ん」

「千歳は黙ってろ!橘くん!色々と窺いたいことが…いてっ!」



色々聞きたいことだらけで焦っていたら白石に後頭部を殴られた。そう言えば一応今日は練習試合をしに来たんだった。危ない本来の目的を忘れてた。振り返って少し口をへの字にしている白石に謝ってから俺は千歳を引っ張り大人しく脇に寄った。
まずは部長同士の挨拶、と言うことで白石と橘くんが挨拶を交わしている姿をそわそわと見ていたら、橘くんの隣にいたタオルバンダナ姿の少年に銀さんが親しげに話し掛けていた。あれ、知り合い?と思ったままを口にすれば、小春が嬉しそうに兄弟なんやって!と教えてくれた。
へえ、銀さんの兄弟かあ、とそのバンダナくんをじっと見れば、恥ずかしそうに頭を下げられその姿に何だかちょっと癒された。そうだよ。正しい後輩ってのはこういった礼儀のある子なんだよ。金ちゃんは特例としても某財前くんとかね、彼は銀さんの弟くんを見習った方が良い。



「いつも兄がお世話になってます。弟の石田鉄です」

「てっちゃんか!銀さん良い弟くん持ってんな!」

「自慢の弟や。…鉄、案内頼めるか?」

「おう!」



笑顔で言葉を交わすその姿を良いなあと微笑ましく見ていたら、何故か頭頂部を思いっきり殴られた。じわりと響くその痛みに患部を両手で押さえて耐えていると、金ちゃんがそんな俺を見て辛そうな表情をした。端から見ていてそれだけの表情をさせるくらいなんだからそれはもう凄い勢いだったんだろう。
涙目で叩いた本人を睨み上げれば、何故か思いっきり睨み返された。何で加害者であるお前が睨んでくるんだよ、と負けじと無駄に高い位置にあるむかつく顔をもっと睨んでいると、苦い笑いを浮かべた橘くんが間に入ってきた。
まあまあ、と千歳を窘めるその姿、俺には輝いて見えます橘くん。



「どげんしたとや千歳。そげん怖か顔ばして」

「桔平が佐上に色目ば使っとるからたい」

「そりゃお前の言いがかりだろ!橘くんは何もしてねえよ!」

「色目なあ…。あ、佐上、と言ったか?俺のことは呼び捨てで構わんぞ」

「じゃあいっそ桔平と呼ばせて頂きたいです」



ここぞとばかりに俺がそう言うと、千歳の睨み顔が一層恐ろしくなった。今まで知らなかったけど自分より高い位置から睨み付けられるとなんか余計な恐怖が付属するらしいな。正直に言うと今の千歳は結構怖い。
そう言った余計な恐怖が作用して尚のこと俺が橘くんの背に隠れるとまた千歳の顔が歪む。何という悪循環、と思いつつもこの身を犠牲にする気はない。だって怖いじゃん。千歳あんまり怒らないから何してくるか分からないじゃん。
正直橘くんとそんなに身長差がないから隠れられているかと言えば微妙だけど、間に誰もいないよりは数百倍ましだった。



「桔平か、別に構わんばい」

「やった!」

「じゃあ佐上、俺んことも千里ち呼べ。んで俺はお前のことば康治ち呼ぶ」

「嫌です」



何故そうなる。と嫌そうな表情を隠しもせずに言えばついに千歳の顔が般若の領域に達した。やだなにこいつほんとどうしたの。怖いんですけど、ともう敵前逃亡したい気持ちを何とか我慢していると、何を勘違いしたのか橘くんに千歳の前へと引きずり出された。
一瞬何が起こったか分からなかったけど、ひゅっと喉の奥が鳴ると同時に獲物の前に出された小動物の気持ちが分かった気がした。



「っ?!」

「桔平?」

「お前が随分とご執心だからどんな奴か気にはなっとったが、案の定面白か奴たい!」

「ちょ、いやいやいやいや橘くん…?!」

「こんなに敵意剥き出しの千歳からは奪えんったい。佐上、不器用な奴っちゃけど、千歳を宜しくな」

「え?なん、何だこの状況?!」



何この生け贄にされた感。絶望に血の気が下がりまくりですジーザス!神よ!ああもう何でも良いから俺を助けてくれちくしょう!と両手を組んで願いそうになった瞬間とどめと言わんばかりに橘くんに背中を押された。つまり俺の体は千歳の目の前に。物理的な意味で喰われる!と思い強く目を瞑ったが、待ち受けていたのは柔らかい抱擁だった。
とりあえず殴られなくて良かったとか色々と安堵するやら、でも俺今思いっきり敵の手中じゃんと胸の底辺りがゾッとするやらでごちゃ混ぜになっている頭で何とか橘さんの方を見ると、彼はそれはもう爽やかな笑顔を湛えて俺達を見ていた。
さすがにちょっと殺意が湧いた。



「お似合いばい、おまえら」

「桔平!俺はよか相棒ば持ったと!」

「………」



俺もう実家に帰りたい。ぐすっと鼻を啜りながら切にそう思った。もう嫌です。お似合いとか何なんですか。泣きたい。
片腕で目元を隠し滲み出そうな涙を耐えていると、不意に橘くんが俺の耳元で何かを囁いてきた。早すぎて一瞬何を言っているのか分からなかったけど、ゆっくりとその言葉の意味を理解して俺の顔にじわじわと笑顔が戻った。
何かあったら相談にのるばい。
そう言い残し片手を軽く上げて颯爽とコートの方へと駆けていった橘くん、いや橘さんの背に向かって俺は力一杯叫んだ。



「俺、橘さんになら抱かれて良い!」

「何で?!」



それから暫く千歳と口論になり殴り合いになったのは言うまでもない。




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