introduction -Arashi-
少し前まではただの照明器具だった太陽が少しずつ温度を持ちはじめて。
それにつられるように、どことなく寂しげだった通学路に、ポツポツと『色』が戻ってきた。
一年ぶりの、春の訪れ。
だからどうというわけではないけど、上着一枚分軽くなった身体は「さあ次だ」と言わんばかりによく動く。
そんな春の気候と練習後の心地のいい倦怠感。
ダブルパンチでこみあげてきた欠伸を微妙な抵抗力で気持ち程度噛み殺しながら部室の鍵を閉めると、すぐ隣から、ブシッっと、何かを無理矢理押しつぶしたような音が聞こえた。
「風邪か、それ」
「うー……かもー……」
昨日から何度も耳にしたその音の正体は、『くしゃみ』だ。
発信源は、マネージャーの笠原結。……女子のくしゃみって、もうちっと可愛い音だった気ぃするんだけど。こいつのは、なんかちょっとシュールで笑える。
「……ったく。新入生入ってくるっつーのに。たるんでるぞ、マネージャー」
だけど時期が悪い。
明日の入学式が終わると、各部の新入部員獲得戦争が始まる。
なんせうちは同好会上がりの、ふたりきりの柔道部だ。秋からあれこれと作戦を練って、ようやく……で、これとは。
「ごめん……でもやばいのは鼻だけで別に具合が悪いとか熱があるとか、そういうのはないから! 普通に! 超がんばる!」
「……ならいいけど。無理は絶対すんなよ」
「しないしな……ッブシッ」
俺のここまでの一年間は、笠原の存在なしに語ることは出来ない。
柔道部に巻き込むにあたって、ずるいとか卑怯とか散々言われてきたけど、なんやかんや、あっという間の一年だった。
すげえ感謝してんだよ。
これでも。
「……顔色は悪かねえな」
感謝という名の情があるから。
変なくしゃみでも、普通に心配にもなる。
「不二山君、近いです」
顔色は良好。
目は潤んでるけど……これくしゃみのせいだろ?
ていうか。くしゃみ以外何もないって。それって。
「お前それ、花粉症じゃね?」
春にくしゃみといえば、それしかない気がするんだけど。
「……いやいやいやいやいや。ないないないないこれ風邪超風邪きっと明日から熱が出る」
「それは困る」
「あ、そか。いやでも、花粉……それは……」
「頑なだな」
「花粉と霊感は認めたら負けでしょ……?!」
言われてみたら、確かに。認めたくない気持ちもわかる。
だけど認めてしまえば楽になることもあるだろ。たとえばそう。花粉とか。
「はやく薬貰い行けばいいのに」
「だーかーらあーっ」
ごねる最中に、もう一度くしゃみ。
今度は溜めの時間がなかったせいか、余計変な音が笠原から零れる。
「まーいいよ」
面白い。
ほんと面白いよな、こいつ。
「よくな」
「元気ならいい」
我慢しそびれた笑いをそのままに頭を軽くたたいて、いくぞと前進を促した。
笠原は一瞬変な顔をしたけれど、はっと我に返ったみたいに、小走り、ぱたぱたと俺の後ろに続く。
「鍵返しいくの? 私行くよ?」
「やー……いい。俺行く。てかお前も来い」
そんな笠原を振り返りながら、ふと浮かんだひとつの『名案』。
完全に思いつきだし。
正直、懐も寂しいもんだけど。
「え? 二人仲良く?」
「そ。……ほら、明日っから、人増えるかもしんねーし」
「……うん?」
ふたりだけの放課後は、きっと、今日で最後だから。
(じゃねえと困るっつの)
「とりあえず一区切りてことで。……茶くらいなら奢ってやるよ」
新しい一年を目の前に。
これまでの一年を後ろに。
とりあえず、これまでの。
俺ひとりぶんの感謝を。
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(11.09.03)
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