音の記憶2
生まれて初めて触ったピアノは、笠原の家にあった古いスタインウェイ。
古いなんて表現をしたらバチが当たりそうなそれはそれは立派なアンティークピアノで、笠原家前当主の親友の息子であり現当主の親友でもある男(つまり俺の父親だ)曰く、「生きてる内に見られればラッキー、希少中の希少であり最高レベルの音の芸術品」なのだそうだ。
なぜ笠原家前当主の親友の息子であり現当主の親友であるつまり笠原家とは血の上では他人であるはずの俺の父が自慢気だったのかはわからないが、とにかく、音符も読めない正真正銘の子供であった俺や笠原の末っ子がオモチャ代わりにばんばん鍵盤を叩きまくっていい代物ではない。
それなのにあのピアノの持ち主は、並んでガチャガチャな騒音を鳴らしまくる孫と俺を優しい目で見守ってくれた。
楽しいでしょう? と、うれしそうに。
……それからまさか自分がこの世界に足を踏み入れることになるとは思わなかった。
あのピアノとの出会いが運命になんらなかの影響を与えた、という可能性も否定は出来ない。
そんなことをちらりと考えなくもないが、今となってははじまりだなんてどうでもいいことだ。
だけど
『楽しいでしょう?』
あの笑顔にまた会えたら。
今の俺は、どんな言葉を返すのだろう。
「まさかせーじ君が同じ学校にいたとは……」
笠原の末っ子、結。
最後に会ったのは笠原の「大奥様」の葬儀の日だから……もう5、6年は経つだろう。
驚いたのはお互い様。まさか同じ校舎の中で遭遇するとは思わなかった。
「……今までどこに隠れてたんだお前」
丸一年同じ空間にいて今更ご対面とは、そんなに縁がないのだろうか。
……いや、おそらく俺が周囲に興味を抱いていなかったのが大きい。
学年が違えば別世界。自分の学年のことすら見えていないのに、ひとつ下のことなんてわかるわけがない。
「……いや、正々堂々生きてますが」
久しぶりの再会。
変わってないな、と言ってやりたいところだが
「……ていうか、育ちすぎだろ」
「それはイイ女になったな、と解釈してもいいの?」
「いや、純粋に、縦にだ」
「ちぇーっ」
デカい。
そういやこいつの兄も、奴が中学生の時にはすでに俺の父親を越えていたよう気がする。
……ついでに。イイ女かどうかはともかく、記憶の中の子供が「女」という生き物に化けたという純粋な驚きも、確かに多少はあった。(いちいち言う必要はないだろう)
「でもほんと久しぶりだよねー。あれから全然遊びにきてくれないんだもん。さみしかったなー」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ」
「……言い方を変える。社交辞令はやめろ」
「……なーんかひねくれた?」
「なんでだよ」
「ほんとなのになあ。ほら私、友達殆どいなかったしさ」
子供の頃はよく父親に連れられて笠原の家に出入りしていた。
その父親も子供の頃は自分の父親(つまりは俺の祖父だ)に手を引かれあの家に通っていたというのだから家同士の縁は深い。
だけど俺が本格的にピアノを習い始めるとその機会は減り、中学に上がる頃には俺だけ、すっかり疎遠になっていた。
結の友達の有無なんて知ったことではないが、友達がいないといわれれば納得は出来る。個人の性格の問題じゃない。……あの土地で、笠原の人間として生きるのは子供には息苦しいのだろう。
こいつも面倒くさい家に生まれたものだ。
俺の家も相当だが、歴史が古い分、笠原の家の方が締め付けはきつい。
「……『いなかった』」
「ん?」
「過去形だ」
ああ、そうか。
だからこんな馬鹿みたいに遠いところにいるんだ。
「ああ、うん。今はね、可愛い女の子の友達も、馬鹿やれる男友達も……一緒に頑張れる仲間もいるから。すごく楽しいよ」
「……恋人が抜けてるけどな」
「あーうるさいうるさい」
学校にいる少しの時間だけでも、『外』の世界に触れられる。
子供の頃の結は、纏うものが子供のそれではなかったけれど、今はそれも和らいで、気の抜けた表情はちゃんと年相応に見える。
「うるさいは一度でいいうるさい。俺はもう帰るぞ」
「あ、私も部活行かなきゃ」
「部活?」
「うん。柔道部のマネやってんの」
「……ふうん」
幾つもの予想外の『選択』がもたらした結果がコレなら、それらは全部『正解』だ。
楽しいかと聞かれてはじめて、「楽しい」と答えたあの不自然に大人びた子供は、もうどこにもいない。
「じゃ、私先いくね。今度ゆっくりお茶でもしよう。せっかくこんな近くにいるんだしさ」
「……暇だったらな」
「ん」
葬儀の日。結はうつむくこともなく堂々とした様子で親族席に座っていた。
長男、長女がこっそりと涙を拭く横で、ゆっくりとした瞬きだけを繰り返して。……まるで悲しみをやりすごすみたいに。
「……待て結。……その、あのピアノは?」
「ピアノ? あるよ」
「有無を聞いているんじゃない。状態を聞いているんだ」
「んー……ごめん。拭いたりはするけど、弾く人がいないから」
葬儀が終わってすぐ、そんな結を連れ出してあのピアノの前に座った。
オモチャとしてではなく、楽器と弾き手として向き合った。
あのピアノに触れたのは、その時が最後。
幼い頃一緒に音を鳴らして遊んだ片割れの手は鍵盤の上にはなく、そいつは俺の横で静かに、音のない涙を流していた。
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(11.09.29)
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