音の記憶




 年齢的にも身長的にも、今よりだいぶ小さかった頃。
 おばあちゃんがよくピアノを弾いて聴かせてくれた。
 
 あのピアノはおばあちゃんの宝物だ。
 ずっと変わらず、同じ場所にあるのに。弾く人がいなくなった今では、ただ静かに時の流れを見守っているだけの置物のようになっている。

 
 本当は弾いてあげたい。
 でもこの指はおばあちゃんみたいに器用に動いてくれない(はっきり言うとド下手)


 おばあちゃんが亡くなって、あのピアノが音を奏でたのは一度だけ
 ……お葬式の日に、『あのコ』が弾いてくれたのが最後だ。




「あ」

「笠原さん?」

「……あ、すみません」

 10年ぶりの高熱を出したあの日から、たまにあの音を耳にするようになった。
 というか、タイミングと意識の問題で、それまでも時々あることだったらしい。
 ちなみにこの情報源はまさかの不二山で、練習前に立ち聞きをしにいくこともあるとかなんとか。まあそれはどうでもいい。


 階段で玉緒先輩に捕まって、規定外のベストについていつも通りのやんわりとした注意を受けている最中、それはまた聞こえた。
 一度耳に入ると、思考がそちらに持っていかれてしまう。

 良し悪しがわかるほど耳はよくないけれど、巧いか下手かくらいはわかる。
 たぶんこの人は、きっと、すごく巧い。


「あ、結ちゃ……わあ、カイチョーもご一緒」


 誰が弾いているんだろう。
 ちょっと行ってみようかな。音楽室に。
 ……と、気持ちが音楽室方向に傾き始めたまさにその時、絶好のタイミングでこの男が現れた。


「ちょうどいいところに来たねルカ。あんたもちょっと参加していこうよこの有意義なお話に」

「そうだね。彼は特にツッコミ所満載だし」

 ツッコミ所満載。……という先輩のその言葉のチョイスはだいぶ意外だけど。むしろツッコミ所しかないようなルカの登場はこちらにとっては好都合だ。

「いや、俺ちょっとヤボ用が……」

「ていうか先輩、この歩く校則違反を差し上げるので私を釈放してくれませんか」

「え?! 売った!?」

 瞬時に一歩引いたルカの身体をがっしりつ掴んで、先輩の御前にすすっと突き出す。

「あ、部活?」

「はい。……や、その前にちょっと寄るところもあったりとかしちゃったりしてですね。このベストについてはもう十分すぎるほどのお言葉をいただきましたし……」

「……君は部活も頑張っているしね。しょうがない。商談成立だ」

「あざっす!」

「ちょ、結ちゃ……っ」

「ごめん、今度なんか奢るわ」

 玉緒先輩ががっしりとルカの肩を掴んだのを見届け、ほとんどダッシュの勢いでその場を離れる。
 ルカには非常に申し訳ないことをしたけど。
 てか、そんな格好で学校に来る方がほうが悪いよね? いや、人のこと言えないか。
 とりあえず後日何らかのお詫びをするということで罪悪感とはおさらばして、音楽室への階段を昇った。








 音楽室のあるフロアに到着すると、一気に人の気配がなくなった。
 そうか、今日は吹奏楽部がいないんだ。
 だからピアノもひとり占め、と。なるほど。なかなかいいご身分で。

 
 演奏を止めてしまうのはよくない。
 とりあえず出入り口の側で、最小限にまで縮んで座る。




 それにしても。
 わざわざ弾き手を知りたいなんて、我ながら全く理解できない心境だ。
 日常生活に紛れ込む耳障りのいいBGM。それでいいはずなのに。



 ……これが「感傷」ってやつなんだろうか。
 一人になって、暗いことは考えないようにしていたのに。
 ピアノの音によって引き出された思い出が、思いの外心にいいパンチをくれてる気がする。



 ピアノの音が当たり前にあった頃。家族も皆家にいて、騒々しいくらいの毎日だった。


 そこからピアノの音がなくなって。

 一人ずつ「外」へ出ていって。

 今では、自分以外音を立てるものがなにもない。

 無駄に馬鹿でかくて壮絶に古いあの家はそんな小さな、一人分の生活音も逃がさず冷たく響かせてくれるから。それが余計に……


「……余計に、じゃないよ馬鹿」


 ああ、だめだ。マイナス思考。だめ、絶対。
 今心がくじけたら、家に帰れなくなっちゃう。
 誰かに甘えたくなっちゃう。
 ……そんなのはだめだ。絶対。絶対に。


 
 よくない気持ちを引っ張り出そうとする、この音はものすごく「キケン」
 なのにどうして


 どうして、ここから離れられないんだろう。





 しばらく悶々としているうちに演奏は終わった。
 ばたばたと帰り支度をする音が聞こえるけれど、正直「お見事」と手を叩いてあげられるほど健やかな精神状態ではない私は、膝を抱えたままじろりと出入り口をにらむようにしてその人が出るのを待つ。 


「……誰だ」


 やがてそのドアが開いて。
 現れたのは、見慣れない、綺麗な顔をした男子だった。


「……えーと……」

「……ん? お前……」

「え?」

 ていうか。
 見慣れないはず。なのに。
 何だかデジャブるこの感じは何。


「……お前、結かっ?」


 私がそれに気づく前に、向こうが何かに気づいた。
 

 その瞬間、「ああ、そうか」とすべてのパズルがかちりとはまる。


「なんでこんなとこにいんの?!」




 これが。彼が。
 あの音の、『懐かしさ』の正体。





 

 




--------------------------


(11.09.23)







第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -