花粉症じゃなくてよかった。
 ほんっと、ほんっとよかった。

 
 くしゃみから一週間遅れて出てきた風邪の諸症状をこんなにも晴れやかな気持ちで迎えることができたのは、事前に埋め込まれた花粉症への恐怖のおかげだろう。
 なぜか不二山は「絶対花粉だ」っていって譲らなかったけど、「風邪だ!」と喜びを隠すことなく報告したら頭頂部にびしっと、手刀打ちをくらった。
 喜ぶな。って。にっがい顔で。
 まあそりゃごもっともだ。全面的に不二山が正しい。
 現に勢いよく飛び出した二人を見送った途端体にどっと重力がのしかかった。わかりやすい言い方をするなら、「だるい」。

 風邪を引くこと自体かなり久しぶりでその感覚をすっかり忘れていたのだけど、これは、たぶんかなりやばい部類だろう。
 全身のだるさ、寒気、そして関節の痛み。頭痛も吐き気もほぼマックスときてる。
 これは早く帰らないと。
 ええと、カレンと、待ち合わせ。あれ、どこで。


「あ、あの……大丈夫ですか?」

「え。……あ」

 声をかけられてはっと我に返った。
 そうだ、ここは新名のクラスだ。
 さんざん騒いだあと電池切れみたいに立ち尽くす上級生を前に困惑しているのだろう。新名の友達らしき男子たちが、戸惑いにちょっとの心配を含んだ表情で私を囲んでいた。

「ごめん、お騒がせしました。ええと、柔道部です」

 おっといけない。
 地顔が怖いんだから、せめて笑顔くらいみせておかないと。
 赤の他人ならともかく。彼らはかわいい後輩の友達だ。扱いは慎重に、丁寧に。

「や、それはもうわかってますけど、その」

「ニーナ、部活頑張ってるよ。ちょっと根性ないけど。……放課後は責任もって面倒みるから、昼間はよろしくね。あいつのこと」

 何これ。超先輩っぽいじゃん私。
 ただの部活の先輩がこんな出すぎたことを言っていいのかどうかはともかく。

「えと……それは、はい。……て、それより」

「ん?」

「だいぶキてるっぽいけど、大丈夫っすか……?」


 大丈夫かどうか。と聞かれたら、大丈夫じゃない。
 ていうかこれ、本気でまずいかも。
 だって笑ってるのに心配されるっていうことは、うまく笑えてないってことじゃん。 そんなこと今までなかった。
 どんなときでも、「振り」だけは完璧だったのに。


「……大丈夫。ごめんね、ありがとう」

「友達と帰るんすよね。俺ら昇降口まで行きましょうか」

「賛成! マジしんどそうだし」


 ああ、うれしい。うれしいなあ。
 しんどいときにもらう人のやさしさって、ほんと胸に染みる。
 新名。あんた友達選び上手いわ。
 見た目軽そうな子達の集まり。だけど中身はすごくいい子だ。


「ううん、平気。ありがとね。お邪魔しました」


 通りすがりの先輩が心配かけてすみません。
 そんな申し訳なさを上回る嬉しさを抱えて、今できるかぎりの、精一杯の笑顔を作って教室を出た。
 






 さて。
 どこにいけばいいんだっけ?



 昇降口でいいの?
 それとも、教室?


 ケータイを見れば一発なのに、今はその動作すらしんどい。
 いっそこのままのたれ死んでやろうか。
 そんな洒落にならないことを考えながら、分岐点ともいえる階段へと差し掛かった。


 その時。

「……?」

 不意に流れてきた『音』に、ぴたりと足が止まった。

 ピアノだ。

 だけど、だからどうしたよ、私。

 まだ外は明るい。学校内で楽器の音がしたところでなんら不思議でも珍しくもないし、ピアノや音楽の趣味もない。


 なのにどうして足が止まるの?
 どうしてこんなに、この耳はこの音を拾うの?


 ふらりと一歩、音楽室方向に足が向かう。
 だけどそこが限界だった。
 この体で階段を昇るのは拷問に近い。


「……あ! 結いた! ……って、ちょっとっ大丈夫?!」

「カレン……」


 上にも下にも行けず立ち往生してしまったところに、救世主カレンが登場した。
 息が切れてる。……上から来たってことは、待ち合わせは教室だったのかな?


「うわっすごい熱っあんたこれ死ぬよ?!」


 ぺたりと額に手の平を当てられる。
 あ。これすごく気持ちいい。


「……このまま真っ白になって燃え尽きるさだめか……」

「余計なボケは不要! うちの車呼んでるから、それまで我慢できる?」


 座れ、と促されて。その力に逆らうことなく、階段に座り込んだ。


「車……? いいよ、駅まで付き合ってくれたらそれで……」

「こんな状態の友達を途中で捨てていけますか」

「でも遠いし……」

「なら尚更。家はどのへん?」

「……△△市」

「……って遠! あんたそんなところからきてたの?!」

「まいにちー……電車でえー……」


 そう。毎日一時間半程かけてきてます。
 快速電車使ってでそれ。普通列車だともっとひどい。


「……とにかく、あんたはちゃんと送り届ける。家には連絡した?」

「……してない。てか、いらない」


 善意を突っぱねるには労力がいる。
 ここはもう、素直にカレンに甘えてしまおう。
 そう覚悟を決めると、体から力が抜けた。
 バレーで鍛えたカレンの肩に、でろりと、溶けるように体重を預ける。


「なんでよ」


「ひとりだから」


 ああ、そうだ。ドラッグストアに寄って貰わなきゃ。
 薬とか。スポーツドリンクとか。……ゼリーがあれば尚嬉しい。


「……あんた」

「……ごめんね、迷惑かけて。でもありがと。すごく助かる」


 あ。ピアノが止まった。
 残念、最後まで聞きたかったのに。


「……ねえ、ならうちに来る?」

「んー……?」

「うん。そうしよう。近いし。一人よりいいでしょ」

「んー……」

 だけどすぐに、私の心の舌打ちに反応したかのように演奏が再開された。
 なんだ、ひっかかっただけか。
 顔も知らない『誰か』と、舌打ちシンクロしちゃったかも?


「……こりゃだめだわ。ネジ飛んでる」

「わたし?」

「そ。死にそうな顔して口だけ笑ってるの、結構不気味よ」


 なんでこんなに気になるんだろ。
 わからない。
 ……わからない、けど。
 この『音』は気持ちいいな。
 はじめて聴く曲なのに、なんか懐かしくてさ。


「……ピアノが」

「ん?」

「……や、いいや」

 
 ポケットの中で、携帯がブルブルと震えた。
 そういえばさっき、いけそうな心当たり全員にSOS出してしまったような。
 誰だろ。なんかすごく、ごめん。
 

「……カレン、甘えついでにもういっこいい?」

「なに?」

「ケータイ、対応」


 だるい腕をなんとか持ち上げ、ポケットの中から携帯を取り出す。
 そしてそのまま、その機体をぽろりとカレンの膝の上に落とした。

「返事しろってか」

「無駄に心配させちゃった。多分ルカとかそのへんだからだいじょぶ」

「って私スマホ触れないよ!?」

「なせばなるなる」


 ごめんね、カレン。

 心の中でもう一度、心からの謝罪を告げて。
 
 私を心配してブンブン鳴り続ける携帯と、柔らかなピアノの旋律。
 全くかみ合わない音のコラボレーションに耳を傾けながら、そっと両の目を閉じる。


 だるいし、きついし。
 いっそ意識を手放せたら楽なのに。 
 

 
 もったいなくて眠れない。
 贅沢すぎるでしょ、こんなの。

 





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(11.09.11)







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