>>演劇部の彼
甘い重低音が、私の意識を吸い込んでいく。

何も手につかない。あの声を聴くと心がざわついて、落ち着かなくなる。

図書室に勉強しに来ているというのに、勉強が手につかない。しっかりしなくちゃという自分への叱咤はすぐに頭の中から追い出されて、全てが魅惑のテノールで満たされてしまう。
誰かの声に心震わされたのは初めてだ。その声は声質だけではなく、人の心を動かすエネルギーを持っていた。圧倒的な磁力があった。

でも私は、未だにその声の持ち主を知らない。




*





正門を通り、右へ曲がる。まっすぐ行くと、"黒影会館"がある。私の高校の歴史を学べるその会館は二階建て。一階は会議室で、二階は資料館となっている。
その一階部分を平日の放課後、毎日借りているのは演劇部だ。

学校の本館の隅っこに位置する図書室は、その黒影会館と近い。図書室の窓からは黒影会館の側面が見える。演劇部の姿は見えないけれど、彼らの発声練習の声は十分すぎるほど聞こえてくる。

「先生、あの声、本当にいいと思いませんか。」

「え?あ、えっと、ええ、そうね。皆、練習熱心だから。」

皆、か。私は先生の言葉で、私が誰の事を指していたかが先生にわからなかったことを察する。ミランダ先生は、そこらへんちょっと鈍い。というか動きとかいろいろ鈍い。だから私が先生の手伝いもしたりするのだけど。

「あ、先生。それ違いますよ。」

「あああ!ごめんなさい!」

「そんな、大げさな。ちなみにそれはもう一つ向こうの棚です。」

先ほどからの会話は、書棚に返却された本を返しながらのものである。先生は会話しながらだと、本の置き場所を間違えるから、私はそれを正す係だ。去年から続けていると、大体の本の位置が体にしみこんでくる。先生が間違えやすいのも、理由の一つだ。

「でも、急にどうしたの?演劇部の声は聴きなれてると思ったけど。」

ミランダ先生は、本に注意を払いながら会話を続けた。作業スピードが落ちる。先生が同時に物事を進行させるとき、格段にペースが落ちるのはきちんと承知しているのだけど、今は話を聞いてほしかったりするので、私はそれを黙認した。

「新しい学年になってから、新しい声が混じってて。なんだかその人の声が、気になるんですよね。」

「新しい声?そうだったのね、全然気が付かなかったわ。」

先生は気が付いていなかったのか。私はちょっと意外だった。あんなにいい声なのに。
ミランダ先生が気が付いていないということは、他の図書室通いの人も、気が付いていないのかもしれない。私は少しだけうれしくなった。私だけがあの声を独占できる気がした。実際は、私より演劇部の人の方が独占しているんだろう。羨ましい。

「その人、名前とかは分かってるの?」

「いえ、全然。声しか聞こえないです。」

ミランダ先生は、どうして?って顔をした。彼の声が聞こえだしてしばらく経つのに、私が名前しか知らないことを不思議に思っているのだ。

「声が聴ければ十分かなあって。」

「えええ!あ、あのね古市さん、こんな私の言うことなんて聞けないかもしれないけど、気になるなら相手のことを知らなくちゃ。わ、私だって・・・」

ミランダ先生は、ぽぽ、と赤くなる。私はミランダ先生のその態度だけを取り上げて、話題転換を図った。

「先生、マリ先生とうまくいってるんですねー。」

「えっ、あ、えっと、その、」

「いいんですよ隠さなくても。」

私はからかいを含んだ笑みを先生に向けた。ミランダ先生がより一層赤くなる。ああ、これは相当うまくいっているらしい。

それからの会話は、始終私の冷やかしだった。ミランダ先生は慌てに慌て、書棚に本を返す作業がおぼつかなくなり、私が本を直した。
ミランダ先生は、一通り冷やかされた後は冷静になって、私が話題をわざとそらしたことに気が付きだしたけど、結局それを口にすることはなかった。ミランダ先生は、一度機を逃すとその話題に触れられない人だった。



*


私はいつも、図書室で勉強するのが好きである。
本館に設けられている自習室よりも、短い時間しか使えないけれど、図書室という空間が好きである。書棚にずらりと並べられた本は、この図書室にある分でさえ、一生かけても読むことができないだろう。私はそれくらいの本に囲まれて、生きていたい。
最近は、この学校の図書室限定で、空間を満たす音も好きになった。
演劇部の彼。
私はそう呼称している。なんだかかっこいい。
彼の声は、とろけてしまいそうなほど、優しく鼓膜を震わす。彼の声はため息が出るほど甘い。それでいて、私は落ち着かなくなる。

そんな声が、今日は聞こえない。
勉強をしながら、いつあの声が聞こえ始めるだろうかと待ちわびていたのだが、一向に聞こえないので、私はがっかりした。他の演劇部の声も聞こえないから、きっと今日は部活がないのだろう。

「先生、何かお手伝いしましょうか?」

「あら、いいの?」

「ちょっと気分転換がしたいんです。」

「それなら・・・この本を一緒に探してほしいの。ごめんね本当にごめんね。」

どうにも集中できなくて、私は先生に手伝いを申し出た。先生は司書室ではなくてカウンターに出てきていた。何か探そうとして、本を検索にかけていたらしい。
その本は、脚本集だった。ちょうどタイムリーな話題ゆえに、私はちょっとどきりとした。

「貸し出しにもなっていないし、だけど演劇関連の書棚にはなくて・・・きっとまた間違えてしまったんだわ。」

おろおろしたり、落ち込んだりしながら説明をするミランダ先生。あらら、としか言いようがない。

「じゃあ、近くの本だなに置いたりしてそうですね。そこから探しましょう。」

「本当にごめんなさい、いつまでたっても、役立たずで・・・」

「先生は図書室に置く本選びが得意ですよね?得意不得意があるだけじゃないですか。」

落ち込みだすと先生は手に負えなくなるので、すぐさまフォローを入れて、本を探し始めた。
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