三年目を迎えた白石の自転車はそれなりに年季が入っていて、おれが後ろに乗ると、持ち主がペダルを踏むたびに息苦しげな音が耳をついた。
車輪の軸から対称に伸びた小さな部品に、スニーカーの土踏まずを引っ掛けて立つ二人乗りは少しコツがいる。 毎日とはいわないまでも、習慣化されて久しいその不安定さは身に馴染んでいるといってもよかった。 それなのに、白石のチャリの悲鳴がはじめて聞こえたような気がするのは、こんなにも沈黙の多い帰り道がはじめてだからだ。
その瞬間には、我ながらよく反応できたと思ったのだ。 見て見て! と、ネットの向こうで飛び跳ねる元気な金ちゃんは、育ち盛りの小さなライオンのようだった。 小さいとはいえそれは立派な猛獣なのだと思い至ったのは、振り抜いたラケットが生んだとはとうてい思えない轟音とともにボールがコートにめり込んだ瞬間。
低く唸りながらバウンドしてわずかに勢いを殺されたところを掬うようにいなすとガットがびりびりと震えた。 うまくラケットの中心で受けられたと思ったのも束の間、まるでジャンプでやるテニス漫画のように、高速回転するボールが軽々とラケットを突き破った。
謙也!
その声で、あんなに焦ったように名前を呼ばれたことなんかない。 もしかしたらおれが望んだ幻聴だったかもしれなかった。
「なあ、白石」
「……なんや」
「どこ行くん」
「頭打って、お前は自分ちも忘れたんか」
「や、それは分かるけどこっち……」
「ええねん」
よくはない。 はずだ。
タイミングを逃して、言葉は胸のうちに降る。 白石の引き締まった肩を掴むだけの手がいたたまれない。 触れることをためらうなんて、もうどうしたらいいかわからない。
ガットを突き抜けたボールと、弾き飛ばされたラケットのグリップに続けざまに前頭部を打たれてしばらく気を失っていたらしい。 なににも全力の金ちゃんの盛大な謝罪は、半ベソながらもたいそう真摯なもので、まったく責める気になれなかった。
それよりも、ベソっかきの子ライオンの横できれいな造りをした仏頂面の部長(断じてギャグやない)が仁王立ちしているほうがよほど恐ろしいものだった。 いうなれば母ライオン、完全に悪者はおれだ。
いったいどのルートを経由したのか定かではないが、外来は終わっているはずのうちの病院に予約をねじ込み、部活早退のうえチャリの送迎付きで検査を受けさせられた。
たんこぶが巨大なだけで別段の異常なし、というお墨付きにもどこか納得しない顔の白石に再び荷台に乗せられたのがつい先程のこと。
いつもは、橋の手前の交差点でおれ達の通学路は別々になる。 白石の帰り道はそこからまだだいぶ直進、おれは川沿いに、走ればたいしたことないけど歩くと20分くらいのところに家があった。
休日の午後一で遊びに来るならまだしも、部活帰りのうえ病院との往復をしてもらった白石に経由させるには、ためらうのに十分な距離がある。 見えるはずもないけれど、少し前に折れた交差点を振り返った。
……よくはないな。 たぶん。
「ちょお、白石」
「……」
「なあ」
「……」
「…………くーちゃ「おまえ、これ以上なんか言ったら次の信号待ちでチューすんで」
「な」 んと。
荷台のうえで立ち尽くしたおれに、白石は小さく鼻を鳴らして淡々とペダルを踏む。
夏を間近にした風に、細い髪が揺れている。 ミルクで煮出した紅茶みたいな色、意外に芯があってスタイリングしやすそうなそれは、触り心地がいいと常々思っているけれど口にしたことはなかった。 それを眺めているだけなら、いつもとなに一つ変わらないはずなのに。
不意に、歩道の窪みにタイヤが弾んで、白石の肩を掴む手に力が込もる。 手のひらに伝わる体温に知らずほっとした。 触れていてもいいと、自分に言い訳をする理由ができて、強ばる身体がゆるむほどに。
甘えている、と思う。
いまの状況を脱するための方法なんて片手で足りないくらいはある。 でも、おれは、そのぜんぶに目をつぶって、ぜんぶ白石の不機嫌のせいにして、この体温にしがみついている。 そうすることを、なにより望んでいることも承知のうえでだ。
「っ、おい! なんやねん」
焦った声を皮膚越しに聞く。 顔を埋めるように抱きついたせいで視界はよくなかったけれど、チャリがよたよたと蛇行して、白石の心情を正直に露呈した。
完璧を求めて、中学生にしてありえないほど完成された人間の、たまに見せる無防備な素の表情にわき上がるあたたかな感情をかたちにできたことはまだなかった。
「ありがと、しらいし」
「………あほ、次は気ぃつけや」
息止まるかと思ったっちゅーねん。
拗ねたように加えられたささやきに応える言葉も、いつも喉につかえて出てこない。 けれど。
「あ、しゃべってもた。 ちゅー、する?」
「あっほ! 振り落とすで!」
たぶんおれはもうなにを伝えるべきかを知っているので。
「……たんこぶ謙也のくせに」
その赤い耳のふちに噛み付いて、ありったけをぶちまける日はそう遠くない気がする。
そ り ゃ き み が 好 き だ か ら
100816