廊下をすれ違いざまの軽口。
応じた謙也の人好きのする笑顔は、浮かべられたとたんにしぼんでしまった。 それから、節ばった印象のある長い指がくちびるを押さえるしぐさをみとめて、小春はすぐに事情を察した。
カーディガンのポケットをさぐれば、思い通りのものが指先に触れる。

「――謙也くん、リップクリームは持ってへんの」
「小春……」

声をかけて近づくと、いま切れたのだろう薄いくちびるに血が滲んでいる。 まもなく制服のポケットからアイロンのかかったハンカチが出てきて、傷口を抑えるような仕草を見せた。

こういう、ふとしたときに育ちのよさをかいま見せる謙也の、見た目とのギャップが小春の胸をときめかせてやまない。 よって、お気に入りの男の子の可愛らしさが損なわれかねない危機を、小春が見逃すはずはなかった。

謙也は、心の狭い小春の相方の姿を周囲に探し、とりあえず見える範囲にいないことを確認すると肩の力を抜いた。

「そんなん持ってへん……痛い」
「乾燥するから、ひび割れちゃうのよねえ。 ほな謙也くん、これ、まだ使ってないから、よかったらもろてくれる?」

つい今朝方、通学途中に買ったために、まだドラッグストアのテープが貼られたままのリップスティックを差し出した。薄いピンクの千鳥格子にリボンのプリントがあしらわれた、いかにも女の子らしいケースの色が悪かったのか、それとも装飾されたフォントで台紙に書かれた『もぎたて・愛されピーチ』という香りが気に入らなかったのか。

驚いた顔は、小春の手のうえのパッケージを目にしたとたんに渋いものに変わり、ゆるく首を振られてしまった。

「や、気持ちだけ受けとっとくことにするわ。 ありがとな、小春」
「あら、ダメよ。 女の子はいつだってくちびるぷるぷるでいなきゃ、ってあ〜ちゃんも言ってるんやから!」
「はあ? なんでPerfume? ちゅーか、なおさらもらえんわ。 おれ女の子ちゃうし」

論理の破綻はもちろん自覚している。
けれど学年でもおしゃれ好きで有名な謙也がこういったところをおろそかにするとは考えにくい。 ハンドクリームは所持していたところを見るに、リップを持っていないのは、おおかた女子の持ち物だとでも決めつけていたのだろう。
そうはいっても、小春だって引くことはできない。 謙也のくちびるに潤いをもたらすまでは、とおかしな責任感さえ芽生えはじめていた。
……こんなところで使うカードじゃない気がするけれど、と逡巡したのも一瞬のこと。 謙也のオフホワイトのセーターの袖を引いて、爪先立ちになる。 金髪からのぞく耳のふちに向かって、できるだけ意味深に響くようにささやいた。

「でも、いつ何時、好きな男の子とのキスが待っているか分からないのなら、謙也くんのくちびるはぷるぷるであるべきやと思うの」
「ぶっ!」

返ってきたのは、ほぼ予想通りの反応だった。 飛びのくように距離をとった謙也は、小春のお気に入りのすべらかな頬をまたたく間にばら色に染めた。 言葉の出ない口は、ぱくぱくと開いたり閉じたり。 ようやく絞り出したかと思えば動揺を隠す気ゼロの言いように、小春は思わず吹き出してしまった。

「おおお、お、まえ、なにを、どこまでしっ、知ってるんや!」
「ウフ……内緒。 でも安心して、蔵リンが直接喋ったわけやないから」
「っ!!」

ああ、本当に可愛らしい。
本気で気づかれていないとでも思っていたのか。 二人の間の空気の密度が、互いをとらえる視線の熱が、がらりと変わったのはそれほど前のことではない。
感慨にふける間もなく、遠目に寂しがりやの相方が鬼の形相で走ってくるのが見えたので、小春はせっかくの髪をくしゃくしゃにして頭を抱える謙也の手にリップを握らせると、かならずつけてね、と残してとりあえず追手と反対方向に走り出した。



小 春 さ ん の 言 う と お り



「謙也? なにしとるん?」
「ふぉおお!」

キャップを閉めたばかりのリップを慌ててポケットにしまいながら、ものすごい勢いで振り返った謙也の視線の先には、面食らった顔をした白石が立っていた。
外に面した非常階段の踊り場という、この季節ならほとんど人通りのない場所でよりにもよって、という相手の左手には真新しい包帯。 確かに、保健室の帰りなら非常階段を使うのが2組への一番の近道だ。

「なんか、ええ匂いする」
「ちょ、」
「桃かな。 なんか食うた?」

手すりを背に、ぎりぎりまで詰め寄られた謙也と額がぶつかる距離で白石が笑った。 長いまつ毛を瞬かせるたびに、巻き起こる風が頬を撫でる錯覚を覚える。

周囲の人間たちよりはだいぶ見慣れているとはいえ、整った造作を最大限に活用した笑みが眩しくて思わず目を細めたのもつかの間、すぐに背筋を冷たい汗が流れることになる。

「くちびる、つやつやしてる」
「これ、は! 小春が……!」

リップクリームになど頼らずともしっとりとしたくちびるが薄く開いて、赤い舌がのぞく。 それが、人が美しいと感じる最大公約数を網羅したような曲線を舐めあげて弓なりに持ちあがった。
謙也はといえば、もはや狩られる寸前の獲物でしかない。

「美味しそう」
「しらい……ふ、」

白石のまとう優しい甘い香りが鼻腔をくすぐって、外気に冷やされた指先をあたたかい手につつまれる。 たったそれだけで、ここが学校だとか、すべての元凶に対する恨み言などすっかり霧散した。
小春の言うとおりだ。
はじめから敵う気なんて微塵もしなかったけれど。 謙也もようやく諦めがついて、素直に目を閉じた。


110107

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