あ、と前の座席に横向きに腰かけていた謙也が小さく声をあげた。 目線をあげると、さっきまで待ち時間をもて余して消ゴムで遊んでいた手が通学かばんをあさっている。
日直の俺とそれに付き合っている謙也だけの教室は、普段が騒々しい分だけ静けさが強調されいて、かばんをひっくり返す音がやけに大きく響いた。
あった、とだいぶ底のほうから引っ張りだしたビニール袋はすでに封が開いていて、勢いで机や、その上に広げた学級日誌にも散らばった。
赤、黄緑、オレンジ、水色、ピンク。
固く砂糖でコーティングされた、つやつやと光沢のある色とりどりのチョコレート。 とうてい口に入れていいようなカラーリングではないと思うのに、なぜか謙也はあまり甘いものが得意ではないにもかかわらずこの手のお菓子を好んで手にするところがある。
「またそんな色のもん食うて」
チョコは茶色と白まで。
まだ空欄の多い日誌の上に転がった小さな粒を謙也の手のひらに戻しながら、いつものセリフが口をついてこぼれ落ちていく。
「べたべたせんくて食いやすいやん。 しかも、いろいろ色が違って楽しい」
「食べ物に娯楽を求めるなや。 あんなあ、着色料ちゅーのは……」
「……あー、うん」
手のなかの鮮やかなマーブルチョコを指で選り分けながら、上の空の相づちが返ってくる。 一つのことに夢中になると、ほかがお留守になってしまうのは俺ではどうしようもない。
しぶしぶそれ以上の追及をあきらめてシャーペンを掴みなおした。 直後、まるでそのタイミングを待っていたようにすぼめられた長い指が目前に迫る。
「はい、あーん」
「……ぼくの話、聞いてました?」
「聞いてた聞いてた。 チョコレートは茶色と白までやろ? せやから、ん」
上くちびるに自分よりわずかに体温の高い指の先と、つるりとした球体の感触。 観念して口を開けば、満足げな笑みといっしょにまずは一粒転がりこんできた。
頑固なコーティングは、ほのかに砂糖の風味があるものの口内の熱でもなかなか溶けずに、咀嚼してはじめてチョコレートの味がした。 これが正しい食し方なのかは不明だ。
もぐもぐ、そんなんしたってもぐもぐ、ごまかされたりせんのやからなもぐもぐ。
茶色と白だけを正確かつスピーディーに選びぬいて俺の口元にせっせと運んでくる謙也は、雛に餌を与える親鳥にでもなったつもりか、ひどく楽しそうだ。 椅子から身を乗り出しているせいでいつもより距離も近い。
あーん、といって俺に開口をうながしながら、いっしょに自分も口があいてしまう間の抜けた顔にすら目を奪われて、気づいたときには新しいチョコが放りこまれているのだ。
俺って絶対にこういうタイプじゃないのに、と思いながらも手ずから与えられたものを噛みしめてしまう自分がすこし情けなかった。
「……味はさておき、疲れはちょっとやわらいだ気せえへん?」
「え?」
「眉間に皺寄って、こーんなやったで? せっかくの男前が台無し!」
こーんなな! といって両手を使って作ってみせた顔は、それはそれはひどいものだった。
呼吸に等しい自然さで察しと気づかいを発揮する謙也は、自分で自覚するより先に、心の小さなささくれをなだめてしまった。 残ったのはその笑顔に照らされた日だまりみたいな温もりだけだ。
「おまえすごいなあ……ありがとう」
「さっきまでブサ石やったくせに、いきなり真顔になるなや」
「照れる?」
「いやいやいや」
「ちゅーか、ブサ石はあんまりやろ。 そもそも、我ながらそこまでひどい顔やなかったと思うで」
「ぷ、まあそういうことにしとこか」
猫のような目がゆるく細められる。 謙也にとっては当たり前の気づかいだと知っていても、その眼差しが湛えるぬくもりは俺だけにそそがれるものだと自惚れたくなる。 その気まぐれな瞳が、たとえ一時でもよそに向くなんて耐えられそうになかった。
「まだまだあるで、ほら」
「はは、もうええやろ。 口んなか、いまめっちゃチョコレート味や」
餌付けなどされるまでもないのに、あーん、と言われれば開いてしまう口のなかにマーブルチョコが、また一つ。 間をおかずに、さらにもう一つ足そうとした手を苦笑混じりに遮ると、謙也は意外にすんなりと引き下がった。 澄ました顔で俺のために選り分けられたチョコレートを咀嚼している。 沈黙につつまれたなか、ツンとした声で紡がれたのは予想もしない一言だった。
「おれは、キスは甘いほうが好き」
「な……、」
いつもは「好き」なんて絶対にいわないくせに。 間違いなくちょっと面白がっている目の前の相手を、身も世もないくらい蕩けさせた夜にだけ、ご褒美のように聞くことの叶う言葉の威力はすさまじい。 いまのところ世界中で俺だけが見ることのできるその表情を思い出してしまって頭を抱えたくなった。
まだ4時半だし。 まだ学校だし。
「おかわり、する?」
口を開けて、伸ばした舌の上にチョコレートを転がしながら横目に笑う。 自分の仕草がどれほど人をあおるのかなんて思いもしないのだろう。 そうでなければ、俺の理性を過信している。 たちが悪いったらなかった。
「おかわりしたら、キスしてええ?」
「……アホ、もうしとるやんけ」
「もっとしたい」
細められた眼差し、形のいいくちびるがゆるやかな曲線を描いて近づいてきた。 焦点も結べないほどそばで、くちびるに吐息が触れる。
「家でなら、ええよ」
「え、ちょお、んん……!」
身体が傾いだ拍子に日誌が謙也の腕に当たった。 手のひらに残っていたものだろう色とりどりのチョコレートが、またこぼれる音がした。
こんなちゅーでおあずけとか生殺やで!
くちびるが離れたとたんに飛び出てきた悪態は、こらえきれずに咲いた満開の笑顔を前に弾けて消えてしまった。 それは、視界の端に散らばるあざやかな色といっしょに目に焼きついてしばらく離れそうになかった。
鮮 や か な 世 界
101024