※某dcm CMパラレル
 白石に彼女がいたり注意


「名前、教えてくれへん?」


メニューボタンに、数字の0。
指先同士が触れたと思った一瞬で手のひらに戻った端末の、薄い灰色の液晶画面に表示されたのは馴染みのある11桁の数列だった。

これまでそうしてきたように『白石』と、名字だけを入力すると、彼は口の中だけで何度か、しらいし、と繰り返し、小さく頷いてくちびるの端をあげた。
白く縁取られた赤い空箱を抱えた笑顔は輝かんばかりに明るい。 まるで人懐っこい人間そのものだった。

「よろしく、" 白石 "」

俺は、空っぽになった手のひらと目の前の存在を視線で往復した。 ブリーチしたとおぼしきくせのある金髪、つり目がちの瞳。 骨っぽい身体はどこにでもいそうな今どきの同年代のものだ。

ただし、俺以外に見えはしない。
彼は、俺の携帯電話だと名乗った。

驚いたことに、携帯が人の形をとってもとくに不都合はなかった。 必要とあらば電話機の形状で役目を果たしてくれたし、雨の予報が出ている日には玄関先でかならず傘を差し出してくれた。
店頭で勧められるままに加入した健康管理のアプリケーションを開こうものなら、今日は200歩しか歩いていないだの、そのチーズリゾットのカロリーはいくらだから夕飯はこれにしろだの、「お前は俺のおかんか……」というノリで甲斐甲斐しいったらない。

「あ、白石、" ユウジ "が『金曜に合コンどうや』やてー」
「んー……、パス」
「『悪いけど予定入ってる。また今度頼むわ』?」
「そやけど……なに、いまの」
「予測変換と定型文。 ん、送信完了」

便利にもほどがある。 買い替えてから、ほとんど携帯メールはこのやりとりで成立していた。

まさか、最近はこういう仕様になっているのかとそれとなく話を振ってみたところ、周囲の人間たちには一様に不審がられたので、これは科学の進歩によるものではないらしい。

名前を訊いても、カタログに書いてある通りの機種名が返ってくるし、本名はと尋ねなおすと製造番号を読みあげられた。 適当に呼んでも返事をしないし、そもそもなぜ、とかどうやって、とかいう疑問に目をつぶって恩恵に与っているのだ。 名前など、彼にとっては些細なことなのかもしれないと、いつしかそれほど気にならなくなっていった。

大学に入ってから、携帯電話はそれまで以上に必要不可欠なものになっていて、サークルや学部の人付き合いはもとより、掲示板の貼り紙はたいがい写メで保存してからスケジュール登録、ゼミの休講は教授から直でメールを受信するようになっている。

誰もが一つは持っていて、そして真の意味で同じなどありえないもの。 はじめは、奇抜な外見のあまり、もて余しそうになったその新しい携帯は、驚くほどすんなりと俺の日常に溶けこんだ。
まるで寄り添うように。

「せやけど勝手に着信音変えるん、あれはやめてほしいわ」
「な、それは、おまえが笑うから!」
「ぶっ! あはは、あかん、思い出してもた」
「ひどっ!」

たいていマナーモードにしていたから気づかなかった。 着信音に設定した着うたは、なぜだかこの携帯自身の歌声で再生される。 並んで歩いていたときに、突然歌いだしたのには驚いたけれど、少し調子はずれなメロディにかえって愛着が増してしまったのは、我ながらどうかと思った。



「あ、" すずはな さん "や」

俺が登録した通りに、俺の親交ある人間たちを呼ぶ。 すずはな、というのはここしばらく付き合っている二つ年上の女性の名前だった。 とたんに憂鬱な気持ちになる俺の心など知らぬげに、彼の声は嬉しそうに弾んだ。

「なんて?」
「読んでええん?」
「あほ、遠慮せんと、はよ読んで」
「……『話がしたいの。いつでもいいから連絡ください。愛してる』やて」
「……もっかい、読んで」

素直に復唱する声。
高すぎず低すぎず、少し硬質だけれどなめらかな音で、字面から読み取れるだけの感情を込めてやさしく響いた。
こいつは知らないのだ。 買い替える前の携帯でやりとりされた泥沼のような別れ話を。

そうしてただただ、持ち主に好意の言葉を向ける相手と認識しているようだった。 だから、彼の読み上げるメールはいつも胸が痛くなるくらいやさしい。

「返信どうする?」
「せやな……」

あれこれ理由をつけて返信せずにいたけれど、これもそろそろ限界な気がする。 会って話そう、短くそう返すように伝えると、俺の携帯電話は嬉しそうに笑った。 心のやわい部分を素手で掴まれたように、また胸が痛んだ。

もう、続けていくつもりはないよ。
指定されたコーヒーショップの奥まったテーブルにはすでに相手の姿があった。 深い色の壁にやや落とされた照明のなかでも、相変わらず非の打ち所のない出で立ちをしている。 けれど、それを好ましいと思っていたいつかはとても遠い。

しばらくぶりに顔を合わせた恋人へ早々に告げると、となりで息をのむ気配。 向かい合わせた相手の方がよほど落ち着きはらっていて、対照的な動揺を隠すことのできない正直さがあまりにも人間らしく、心のささくれがなだめられていくようにさえ思えた。

「あのことは、ほんまに反省してる。 でも、そのとき、やっぱり蔵ノ介やないとだめって気づいたの。 あたし……」
「お前の気持ちがどうであれ、もう俺は変われへん」
「でも……!」

腕が触れるくらいの距離でテーブル突っ伏したまま、携帯電話は身動き一つしない。 何を思っているんだろう、カバンでもポケットでも隠れてしまえばいいのに、寄り添った存在はかたくなに離れようとしなかった。

「ほかに、気になるやつ、できた」

これでおあいこやろ、って言葉は飲み込んだ。 勢いで口にだしてしまったけれど、当てつけの軽い感情だと思われたくなかった。 となりの、こいつには。

「終わりにしよ」

くたくたの思いで店を出ると、携帯が黙って手を差しのべてきた。 金色のくせっ毛のなかにつむじが見える。 電話機の姿に戻りたい合図だとわかって、伸ばされた指先を掬うと、かすかに握りかえされた。

「しらいし……、」
「え? おい、どう、」
「ごめん」

瞬間、手のひらにかかる小さな重み。
頭は真っ白になり、茫然と立ち尽くす。 カバンの内ポケットにおさめる指はおかしいくらい震えていた。

それから、記憶も曖昧なままにバイトへ行き、帰宅して夕飯の支度をしたり風呂に入るあいだも、何度かメールをや着信があったけれど、彼の声で読みあげられることはなかった。

翌朝のアラームをしばらくぶりに自分で設定してから、そっと枕元に置く。 黙りこんだままのそれをぼんやりと眺めているうち、目蓋の重みに耐えきれずに気づけば寝入ってしまったらしかった。



その夜に見た夢のなかで、人の形をした携帯がベッドサイドの床に座って俺を見ていた。 珍しい、真面目な表情。

でもなんで正座なん? と、おかしくて言葉を発したいのに縫いとめられたように口は開かない。 なぜだか焦る気持ちがわきあがって必死に動こうとするけれど、身体が砂袋にでもなったように重い。 そうして次の瞬間、どうしようもない俺を前に、つり目がちの両の目から大きな水滴が次から次へこぼれはじめた。

なんで泣くん? なあ――…、

呼んでやる名前がない。
次はもうこないのだと、なぜだか俺はすでに知っていて、それなのに呪いのようにふたたび手を引こうとする睡魔に抗うことができなかった。 やっとの思いで重い腕を伸ばして、濡れた頬にかろうじて指先が触れた気がした。

おまえ、防水ちゃうやろ。 泣いたあかんで。

声になったとは思えなかったけれど、彼はこぼれる水滴にも構わず、はじめて会ったときのように人懐っこい、とびきりの笑顔を見せた。 でもそれが、最後。



ひ と り と 、ひ と つ




携帯が人の形をとらなくなっても、俺の世界は当たり前に戻っただけ。 とくに不都合はなかった。それはそうだ。
むしろあの数ヶ月のあいだ、かたわらにあった存在こそが夢のようだったのだ。

奇声で起こされることもなければ、学食の献立のカロリーにケチをつけられることもない。 真摯な口調で読みあげられるメールも、充電きれぎみの舌足らずな声に名前を呼ばれることももうないと、思っていた。

「しらいし?」

彼がいなくなってから一ヶ月、大教室から吐きだされる大勢の学生の波のなかでまっすぐに届いた音に一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
聞き間違えるはずはないけれど、聞こえるはずのないもの。 思わず、手のなかの携帯を握りしめた。

「なあ、これ、自分のやんな?」

そろそろと振り返った先には、記名したレジュメが一枚。 差しだされた細長い右腕をたどれば、骨っぽい身体、ブリーチしたとおぼしきクセのある金髪、つり目がちの、瞳。

「うそやん……」
「へ? どしたんや……って、ちょ、ほんまどしたん? どっか痛いんか?」

訝しむことを忘れて慌てる声にすら、懐かしさを抑えきれない。
ぼんやりと滲む視界に、左手に握られたオレンジ色の携帯電話が飛び込んできた。 いったいどんな奇跡なのかわからない。 だけど、だから、今度は俺から踏み出さなければならなかった。

「ほんま大丈夫なん?」
「……ん、平気や。 せやから――」

名前、教えてくれへん?


100920

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