何が起こったのか理解できないというように、薄い茶色の瞳はごく至近距離で大きく見開かれたまま固まった。 小さな箱が謙也の指の間を滑り落ちて、絨毯のうえで乾いた音を立てるのを、どこか、遠くのことのように聞いた。

そして不思議なことに、合わせたくちびるからは予想していた味がしなかった。 まるで綿菓子でも食んだようにやわらかく、ひどく甘い。

「……?」
「ん、ちょお……、なん、ん……」

不意打ちのキスを咎める言葉を無造作に封じて、それから今度は確認するように、舌の先で濡れて赤らんだくちびるをなぞった。 ゼロ距離から眺める謙也の目蓋は、秒針よりもゆっくりのテンポで一度またたくと、やがてか細く震えながら伏せられた。

おずおずと開かれたくちびるの隙間から覗いた赤い舌が俺のよこしまな舌先を辿り、迎え入れるように口内に含まれる。 めまいがするほど色めいた仕草だった。
再度くちびるが密着して、キスはいっそう深くなる。 重なったそばから溶け出す錯覚をおぼえるほど、やっぱり甘い。

手首ごと押さえつけていた手がずらされて、床のうえで手のひらを合わせるように繋ぎなおされる。

目を閉じずに口づける楽しみに気づいたのは、謙也とするキスを知ってからだ。 教室やテニスコートで見る顔が、すぐ間近で艶を帯びる瞬間を目にしてしまったのがいけなかった。 教室でもテニスコートでもいつ誰といても、見境なくこれは俺のものだと知らしめたい気持ちと、誰の目にも触れないところに閉じ込めてしまいたい気持ちがギリギリの危うい均衡を保っている。

それなのに、そんな理不尽を謙也はいつだってあっさり受け入れてしまう。 好きならしゃーない、なんて言葉で俺を甘やかして、なおさら手放せなくしてしまうのだ。

「……なあ、けんや?」
「ん、」

ひとしきり検分してくちびるを離すと、力の抜けた身体がもたれかかってきた。
空いた手で引き寄せれば、わずかに乱れた呼吸が耳元にかかる高さ。 くすぐったい、とささやくと、誰のせいや、と照れを隠して笑う声がする。

手放せるわけがない。

独占欲のいうがままに、ほとんど同じ身長の相手を伸ばした膝のうえに抱きあげた。 珍しく、されるがままの謙也の足元に、頭の隅に追いやられかけていた赤い小箱を見つけて、思わず拾いあげてしまう。 鼻先に近づけるとなんともいえない潮と塩のツンとした匂いがただよった。 大人しく膝のうえに座る謙也は、少し高いところで怪訝そうに首をかしげている。

「酢こんぶ食べても甘いんやな、お前」
「……は?」
「やから、酢こん 「あ、もうええわ」

まだ湿り気の残るため息を一つつくと、俺の手から酢こんぶの箱を奪い、中に残っていたすべてを口に入れた。 何枚くらい入っているのだろう、結構な量だ。

「ひゅっぺ……」

案の定なリアクション。 きゅっと目を閉じて、くちびるの先が少しとがる。

下校中によく寄り道するコンビニの一角が懐かし系の駄菓子コーナーになっていて、このところ謙也のお気に入りになっている。 その年で、嬉々として真っ先に都こんぶをカゴに入れるのは、こいつと銀魂のヒロインくらいだ。 が、分かって口にしているんだろうに、にこにこしながら、すっぱい、と言ってくちびるをつき出す仕草すら可愛い気がするのだから、俺ももう手の施しようがない。

「仕返しのつもりかしらんけど、パーフェクトなチュー待ち顔やで、おまえ」
「な……!」
「めっちゃ、可愛ええ」

不思議なことに、やっぱり謙也は甘くて、酢こんぶは謙也の口につながるどこか別の宇宙にでも行ってしまったんじゃないかと、埒もないことを思う。

もはや意図的に陥落をうながす強引さで謙也の襟首に腕を回し、歯列の裏側の弱いところをなぞっていく。

「つ、次からは、くさやでも食って防衛するし……! 覚えとれ」

息も絶え絶えで、そんな減らず口を叩いたところで怖くもなんともない。 ひとまず今日の俺の手練手管に対する敗北宣言とみれば、むしろ喜ばしいくらいだ。

「ええけど、たぶん無駄やと思うで」

仰け反るしなやかな首筋にくちびるを寄せると、殺しきれずに上擦った声があがった。 だって、恋に溺れたおまえはこんなにも甘い。



甘 い ひ と



100910

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