※ちょっといたしてます


もしもこれが謙也の家でなかったなら、確実にエクスタシー侍の標的にされていただろう。 忍足家の門構えを前にすると、いつも胸のどこかがうずうずする。

道なりに進めばすぐに繁華街に出られるようなところに、こんなに広大な土地でもって平屋を建てる気が知れない。 診療に紹介状が必須の病院経営者の邸宅と思えば、体裁とかいろいろ必要になるのだろうとは子どもながらにも理解はできるけれど。

屋根瓦しか覗かないような昔ながらの高い土塀に囲まれた、品のある日本家屋。 見えるところにも見えないところにも贅と粋を注がれた、これは彼のものになるかもしれない家だ。

そうして、開け放たれた門扉をママチャリごと敷居を跨いで、色鮮やかな季節の花に囲まれた軒先を玄関に向かうにつれて、最初の煩悶はたいていすっかり薄らいでしまう。 たしかにしばらくぶりのお呼ばれだけれど、別に俺はこの家に会いに来たわけではないのでこのくらいで勘弁したる、みたいな。

一歩敷地のなかに入るだけで、八月下旬のうだるような暑さはあきらかに緩和される。 計算された樹木の配置と打ち水によるものだろう、無駄がない感じがいい。

「けんやくーん」
「……しらいしー? こっちー」
時代がかったたたずまいに不似合いな大きさのインターホンを鳴らすが応答はない。 よくあることだった。 重い引き戸を半分ほど開けて、人の気配の希薄な空間に尋ね人の名前を呼ぶと、庭の方から間延びした声がした。

自転車を隅に停めて、建物に沿って玉砂利を敷き詰めた角を曲がると、日本庭園の真ん中にビニール製のプールがあった。
それは市販の、小さな子どもが遊ぶような空気を入れて膨らませるタイプ。 けれど今は、俺とほぼ同じ体格の人間がのんびりと浸かっていて、ちょっと、いやかなり違和感のある景色になっていた。 アイスの溶けたクリームソーダみたいな色をしたプールは、長さいっぱいに伸ばしてもはみ出る足と、凭れかかった両腕の重みでかわいそうな姿になっている。

ひょうたんのようなフォルムの上半分側にはビーチパラソルらしきカラフルな傘が無造作に広げて立て掛けられていて、プールの主のむき出しの上半身を直射日光から守っていた。

「題して『ものぐさの夏』やな」
「はは、ひさしぶりにひどない?」

近づいてよく見れば、謙也の浸かったプールには水鉄砲だとかプラスチックの人形が浮かんでいる。 一人で遊ぶには多すぎるにぎやかさだ。

「おかんの妹が子ども連れて来ててん。 謙也お兄ちゃん、大人気やったで」
「へえ」
まったく想像に容易い情景だ。 ぴったりすぎてちょっと笑える。
「あっちこっち引っ張りだこのすえ、プールまで引っ張りこまれてもたわ」

けらけらと笑う謙也の、ブリーチした金色の髪にも水滴が弾けてまばゆい。 忍足謙也を構成するすべてが眩しくて、触れるのをためらう瞬間があることを、彼は知っているだろうか。 そうして、次の瞬間には独占欲に任せて強引に手を伸ばしてしまう俺の身勝手な想いを、はたして、彼は知っているのだろうか。

プールのそばにしゃがみこむと、首を傾げて見上げられた。 睫毛にまとわりついていた水滴が、まばたきの拍子に頬にこぼれて滑り落ちていく。 コマ送りに再生された映画のような光景に、気づいた時には手を伸ばしていた。

「隙あり、っちゅー話や」

差しのべた手を勢いよく引かれて、謙也に折り重なるようにプールに沈んだ。 洗面器で溺れる人間だっているのだ、ビニールプールなんて危険極まりない。
変な声をあげながらプールの底に手をついた俺の耳元で、元凶はこらえきれないように吹き出した。
「はい! 水もしたたる男前のできあがりや」
「はい! やないわ……、」
俺の上体に押さえつけられて溢れ出た水がジーンズを濡らしていく感触。 不快だ、と思ったかどうかは覚えていない。

たしかに、ドッキリ大成功! みたいな笑い声がしていたと思ったのに、謙也の両脇に手をついて身体を起こすと、見下ろした先には妙に挑戦的な眼差しがあった。 言葉を差し挟む隙を与えずに、猫の目がふ、と細められ、差しのべられたしなやかな腕が首の後ろで交差する。 襟足を引き寄せられて、促されるように近づく距離のなか、聞こえた台詞に謙也の意図をすべて悟った。

おかんとしょーた、空港に見送りやから、二時間は帰って来んで。

冷えた水温と対照的な、熱いくらいの体温を奪うようにかき抱くと、望んで溺れるような真似をした。



Love the World




「っ、は……ぁ、なあ、ばあちゃん、元気やった?」
「……え?」

なぜこんな切迫した状況で、と思わずにいられない。 あれから二人して前屈みでビニールプールを這い出ると、やっとの思いでよしずの影に潜りこんだというのに。
プールに入る前に脱いだとおぼしき謙也のTシャツのうえにその持ち主を濡れた身体のまま組み敷いて、その下の真新しい畳にも気が回らないくらいに高まった熱に溺れていた。

そんなときに、ばあちゃんてあんた。
お盆のころは、友香里ともども部活に追われて身動きがとれなかったので、大会が落ち着いてから数日、仙台の祖母の家に泊まりに行っていた。
なにかと慌ただしくて、夏休みに入ってからは謙也と二人の時間をとることも難しかったから、顔を見れて嬉しいと喜ぶ祖母には悪いと思いながらも、心は大阪に置き忘れたような日々だった。

「めっちゃ元気やったで。 せやけど、俺は、早く謙也に会いたいって思っ、て……っ」
不意に、俺を受け入れた場所が抱きくるむように締めつけて震えた。 そんな些細な刺激にすら堪えられないように、背中に回された腕の力が強くなる。 肩のあたりに押しつけられた濡れた金髪が、荒い呼吸のたびに小さく揺れていた。

「…………も、」
「へ?」

目も合わせないまま、いつもの硬質な声の欠片もない吐息のささやきに、まるで都合のいい夢でも見ているようだった。
普段ならまず出てこない間の抜けた声がこぼれて、肩口から顔をあげた謙也が状況も忘れて笑い出す。

下がった眉尻も、赤い頬も、しがみつく指先のなにもかもがかけがえのないものに思えてたまらなくなった。
額に貼りついた髪をよけて顔を覗きこむと、水の膜に覆われた薄茶色の目が眩しげに細められた。
大切にしたいのに奪いたくなる。 謙也に恋をしてからというもの、俺はやっかいな葛藤に悩まされていた。 それがずっと続けばいいと思っているあたり、重症なことは重々承知のうえだ。

「な、続きしてもええ?」
「あほ……ここでやめられても困るっちゅー話や」
はよう、と甘い声に急かされたような気がしたけれど、今度こそ俺の都合のいい夢に違いなかった。


100822

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