※ 侑士くん 捏造注意


「けんちゃん」

子ども部屋の隅を、本棚とおもちゃ箱のあいだにあった小さな空間を世界の端っこだと思っていたそのころ、おれははじめて従兄弟との別離を経験した。
五ヶ月ちょっと先に生まれた侑士の手は、弦楽器を習っていたこともあってか 同い年にしては手のひらも指も少しずつ大きく長くできていて、手をつないだならおれの指先はいつもその体温に包まれる側だった。
それはまだ、テニスに出会うずっと以前のこと。 世界のなにも知らないままに、ただただ離れがたい気持ちから 年齢にしては驚くほど真摯な熱が短いおれの小指に絡んだ。

「おっきくなったらけっこんしよう」

まだ伊達眼鏡なんていうオプションもない、吸い込まれそうな藍色の目がまばたくたびにゆらゆらと揺れた。 離れたくない。 声にならない叫びを聞いた。 汗ばんだ感触。 世界のなにも知らないままに、うなずいていた。



それは、


それはいつしか、気恥ずかしくて取りだすことをためらう記憶ばかりが詰まった引き出しの奥にしまわれたあと、いまのいままで忘れていた約束だった。 頬杖が崩れてとうとつに終わったまどろみは短い夢の余韻を色濃く残していった。 そして、寂しさと幼い熱に浮かされた思い出は、思いだしたとたんに目の前の相手にたいする後ろめたさで胸を満たすほどにはひたむきで、そして鮮明だった。

「謙也? いまめっちゃ がくんってしたけど大丈夫か」
「へいき」
「ほんまに? ちゃんと起きとる?」
「うん……、なあ、しらいし」
「ん?」

ほら、手のひら赤くなっとるやん。 淡い色の前髪を揺らしてうつむいた白石がおれの手首を引き寄せた。 見た目よりはずいぶん固く乾いた感触をもつ手に、赤みを帯びた手のひらを撫ぜられる。
裏切りだと思った。 あれは白石以外の人間としてはいけない約束だった。 許されたくて、いてもたってもいられなくなって口を開く。 おれはきっと、とてもずるい人間だ。

「……あんな、おれ」

触れなければ、テニスをしているというのが意外なほど白くすべらかな手だ。 正確な楕円を行儀よく並べた指先は爪切りの見本にでもなれそうな端整さで切りそろえられていて、節だってひょろひょろといびつなおれの手に、とてもたいせつなものにするように寄り添う。 たいせつなもの、だなんて、ひどい自惚れをしているに違いないのだけれど、それは同時に幸福な勘違いでもあった。 少し低い体温へと、触れたところから溶けだしていく錯覚が心地よくて、一方で心臓は引き絞られるように痛んだ。 体温の持ち主は、つながれた手を引き寄せるとささやくくらいの音量で先をうながしてくる。 そうして、どこからどう見たって男のものであるおれの指先に口づけを落とした。
白石とは、わりと惜しげもなくいろいろな経験を共有してきたと思うけれど、いまだにこういう些細な接触にいちいちどきどきさせられる。 それは相手が白石のときにだけ起こる反射みたいなもので、そういうふうにつくり変えられてしまったのだと思いいたって、かえって気がとがめた。 ただ自分が許されたくて、傷つけると分かっていながら差しだそうとしている。

「おれ、ちっちゃいときに侑士と結婚するってゆびきりしたことある」

す、とうすく開いた眼差しをおれに流して、ふうん と気のないふうに相槌をうった。 薬指を食むくちびるをやわらかくほほ笑ませて。 そうしてほほ笑んだまましばらくの沈黙。

「……それ、いつ?」
「あ、んな、幼稚園にあがるまえくらい。 侑士がはじめて引っ越すことになって、そんで……」
「それで? おまえからいうたん? 『結婚しよう』って」
「や、ちが、う」

ふうん。 もう一度、気のないふうに頷いて、それからすっかりしどろもどろになってしまったおれの顔を覗きこむと、からかうように目を細めた。 ばつの悪さにいたたまれなくなってきた。 身勝手な暴露をはじめたのはこちらなのだから、それはやっぱり自業自得だ。

「謙也、なんでそんな泣きそうな顔なん」
「……」
「傷つける、て分かってていうたんやろ?」

馬鹿正直に頷くしかない。 そんなつもりは微塵もなかったのに、媚びるように目のふちに涙が溜まっていくのが厭わしい。 掴まれている利き手とは反対の手の甲でてきとうに目もとをこすれば、そちらも白い手に取りおさえられてしまう。 あげく、そんなんしたら男前が台無しやで、なんて、はしゃいで転んだ小さな子どもをなぐさめる母親みたいな口調で笑うから、 おれは、はしゃいで転んだ小さな子どもがするように、とても小さな声で ごめんなさい、といった。
でも、当然ながら白石はおれの母親ではないので、泣き顔を隠したいのを力ずくで阻まれ、頬を駆け下りた水滴は余さず拭い去られて、それからそのしょっぱいくちびるが、最後におれの口をやさしくふさいだ。

「……なあ、謙也知ってる? 日本ではいっぺんに二人と結婚はでけへんのやで」
「…………知ってる」

そもそも日本では男同士で結婚はできないのだということだって、もちろん。 けれどそれは、いまのおれにとってささいなことだった。
ほな、選んで。 耳もとで突き放すいじわるな声の主がちょっとだけ恨めしい。 十数年しか生きていなくて、まだ世界の百分の一だってきっと知らなくて、もしかしたらまたいつか「アホなことした」なんて悔やむ日がくるのかもしれない約束を、いま白石としたかった。 
ととのった長い小指と小指をむすんで、約束はしずかに上書きされた。 明日とか、来週の日曜とかいう期日のない約束を、はじめて白石とした。



むすぶ小指


「ゆうちゃん」

とつぜんの呼びかけに、電話の向こうには一瞬言葉を失ったらしい間があった。 遅れて、繕うような「なんやその呼び方、キモ」のいらえ。 たがいを幼い呼称で呼びあっていた日々は遠い。 引越しを繰り返して、徐々に広がっていった物理的な距離ほどではないけれど。

「ごめん。 あんな、おれおまえと結婚でけんようになった」
「ちょ」
「うん、いきなりすまん」
「いつの話してんねん……、こっちから願い下げや」

はあ、なんて呆れたため息のあとに、それでも覚えていないとはけっしていわない律義さを、笑うことなどできなかった。 おれはずるい。


120704


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