※ 成人しているくらけん


出窓に置かれた 小さなキャンドルの炎が揺れるたび、乳白色の水面にやわらかな影が踊る。 夜のなかへ白い小舟で漕ぎ出したように、水音以外のなにもしない。 天井に取り付けられた半円の照明も落としてしまえば、濃紺のタイルを背景に、それは薄曇りの向こうの月に似ていた。 バスタブの縁に頬をよせ、一面にただようバニラの空気で深呼吸をしながら たゆたうように目を、閉じた。

やがて、湯舟の反対で身じろぐ気配。 低い波紋がこちらに届くころ、陶器のたてる澄んだ高音が 星のまたたきみたいに耳朶をくすぐった。

「もうええの、謙也」

笑みをふくんだ声に名前を呼ばれた。 まどろみに重くなっていた目蓋をもちあげれば、向かい側でバスタブにもたれた白石がフォークを片手に小首をかしげている。 完成された目もとの曲線が、ほほ笑みにより添って細められる。 薄明かりに濡れた髪をかきあげる男の、なんてうつくしいことだろう。 こめかみからおとがいへと、光を弾いてしずくの伝う一瞬は まばたきすら惜しい。 おれの語彙が、美しいという形容詞を失わずにすんでいるのは白石のおかげだ、とさえ思っている。

「んー……、ん」

あいまいな答えに気を悪くした様子はなく、キャンドルのあかりできらめく銀色の食器は、ふたりで食べるにはずいぶん大きいケーキの そばに控えていた小皿に戻された。 派手なデコレーションを施された白いホールケーキは、バスタブのかたわらで半分ちかく原型をとどめたまま、皿といっしょにキッチンから持ちこんだ椅子に鎮座していた。

おれはあいかわらず、甘いものは得意じゃない。 けれど、白石の年に一度の記念日には、決まった店でケーキを用意することにしていたし、ことほぐよろこびは年を経るごとに深くなった。 それに本日の主役が、手ずから口もとまで運んでくれるとあっては、クリームのかたまりとはいえ無碍にもできない。
なんていうのはていのいい口実だ。 まるきり嘘でもないけれど。
広くはない浴室で、いい年した大人ふたりが 一本のフォークでかわるがわる食べさせあう遊びに興じて、あほみたいな時間をかけて このさき一年分くらいは食べたケーキに胸やけを起こしながらも、目のまえで嬉しげに頬をゆるめた恋人にでれでれしていた。

休日なのをいいことに昼食からアルコールを並べ、日の高いうちから身体をひらいて、ひさびさのテニスの予定も 以前から話していた店での夕食もキャンセルして、白石に独り占めされることを許した。 休日が重なれば ぐったりするまで遊びたおすことも多いおれたちにはめずらしい、怠惰ともとられかねない時間の過ごし方を、しかし白石は無駄とはいわなかった。 ええよ、とたしかにおれは頷いて、しかし蓋をあければどちらが祝われているのかもはやよく分からないほど、身体のすみずみまで密やかで贅沢なしあわせに満たされている。

「ん、これでしまいにする」

おもむろに向かい合った白石のくちびるの端、あざとさを感じさせないぎりぎりの場所についたクリームを人さし指の背で掬いあげる。 状況を察して、濡れた髪のはりついた頬が薄明かりのしたでもはっきりと赤くなった。
ふたりでの暮らしを この陶器の小舟にたとえたなら、もうずいぶんと遠い海まで漕ぎだしてきたと思うし、相応の年齢も重ねていた。 その日々のなかにあって、清く正しくうつくしく生きつづけてきた白石が ときおり見せてくれる素直な表情は、おれの心臓ちかくにあるたいせつなものばかりを詰め込んだ小さな箱に、ひとつ残らずしまいこまれてはこっそりと珍重されている。

「……うまいやろ」
「とても」

クリームのついた指を これ見よがしに口に含むと、ひどく恨めしげなまなざしを向けられて思わず笑ってしまう。 予約限定の手のこんだケーキは、レースのこまやかさで折重ねられたクリームから星をかたどった飾りのチョコレートまで、すぐにとろけてあとを引かない上品な口ざわりをしていた。
最後のひとくちがいちばん甘いような気がしたのは、まあ きっと錯覚だ。

夜をただよう雲の色をした湯には、立てた膝頭が丸い小島のように二つ、それから向かいに、足が長い分ちょっと表面積の広い白石島と合わせて四つ浮かんでいる。 フォークと持ちかえたシャンパングラスを二つ、白石から受けとるとけなげな忍足島は、陸地いっぱいで優雅な曲線をもった透明な建造物を支える格好だ。 
濃いグリーンのボトルから静かに注がれる黄金色は、ほの明かりのなかでみずから発光するように揺れた。 気泡のいじらしいささやきさえ拾いあげられるほど、そばで。
しなやかに伸びるグラスの脚に白石の長い指先が絡むのをみとめて、風呂場では二度目の、昼過ぎのビールから数えて幾度目かになる乾杯をした。 祝いの言葉は何度いってもいい気分だった。 そのたびに白石が笑ってくれるのも嬉しかった。

「今年も祝わしてくれてありがとう」
「どういたしまして」

舌に触れるシャンパンは淡く果実の香る、洋菓子のあとにもあう優しい後味をしていて、酔いを深めたおれはずいぶんと気が大きくなっていたと思う。

「なんなら謙也、来年の分も予約しとく?」
「んふふ、どうしよう」
「あかん。 俺、来年も再来年もずうっと謙也にお祝いしてもらうためだけに予定空けるんやから」
「…………、ぶは、もうそれ予約いらんやん」

酔っぱらいめ。 まず思ったのはそれだった。 ふだんの理路整然とした隙のないものいいからは考えられないような、子どもじみた主張をふりかざす程度には白石も酔っているのかもしれない。 数秒の思考停止のあと、やっと絞りだしたツッコミは、だいぶ間が抜けたものになってしまった。 きっと顔も赤い。 目じりが焼けるように熱い。 ぜんぶアルコールのせいだと叫びたい。

「うん、ていうて。 謙也」

浮かぶ膝に手を添えられて、ささやく吐息が耳をなぞる距離。 甘えるような、そういう態度におれが弱いと、きっともう知られてしまっているんだろう。 酒気のゆらぎを微塵も感じさせない声に、逃げ道をふさがれていく。 それさえ心地いいような気さえするのだからもうどうしようもなかった。



いとしいあなたに星はめぐる


うなずいた、そのままの姿勢で白石の腕に捕われる。 伏せた視界に、金色の水面が揺れていた。 一心に見つめていると、やがて距離感もあいまいになっていく。
遠いグラスの底で、つぎつぎにまばゆい微小の泡が現れては立ちのぼっていく。 遠い遠い、空の果てで生まれたばかりの星のひらめきは、こんな色をしているのかもしれないと思った。
夜より濃密な闇にあって、小さな新星のあたたかな光は尽きることなく、目を閉じれば、白石からあたえられたものはひとつ残らず同じ輝きをまとって照らしつづけてくれている。


あるいは " Champagne Supernova "
120416


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