このお話と同じ設定です


01.
さしだされる手はいつもあたたかだった。
夢なのだから体温なんて感じられるわけもないのに、おれはいつだってその温もりがほしくてしかたなかった。 静かに伸ばされた指が頬に触れ、目のふちをなぞっていく。 輪郭のあいまいな指先に視線は吸い寄せられて、

「ーーし、」
「……謙ちゃん?っ謙也!」
「ほんまにこいつは……謙也、しっかりせえ」

たしかに、誰かを呼ぼうとした。
けれどそれをかき消すように耳に飛びこんできた声に、呼びそこなった名前はくちびるから抜ける空気に溶けて それっきり、おれの手のなかへ戻ることはなかった。

「おと、ん……、おかん」

白い天井を背景におれを見つめる二人は、うっすらと涙の浮かんだ目でうなずいて、それから満開の笑顔になった。 もみくちゃにかきまぜられた髪は、いつのまにか目にかかるほど長くなっていた。 笑い返そうにも、顔の筋肉が強ばって動かない。 まるでしばらく心を不在にでもしていたように身体は重く、そしてよそよそしかった。

「せや、おまえが助けた妊婦さん、何度も見舞いに来てくれてな、とうとう おまえの眠ってるあいだに無事に女の子産みはったで」
「……ああ、なんか、覚えてる」

覚えている。 青い顔の女性。 迫る自動車、ブレーキ。悲鳴。悲鳴。 悲鳴。 そして、静寂。 白でも黒でもない、温度のない闇。 たくさんの声に名前を呼ばれて、それでも足をとられた深みから立ちあがれずにいた。

「覚えて、」
「謙也?」

さしだれた手。
それは薄暗い帳を払っておれを掬いあげ、いつしか明るい日なたに連れだした。 秋の淡い日射しに、すこし汗ばんだ手のひら。 坂道をいくつも曲がって、振り返った先に見た青を覚えている。

とたん、自覚するより先に溢れだした水滴で視界は覆いつくされた。 覚えていない。 大切ななにかを忘れていた。 あいまいな輪郭はなお一層薄れ、ふさがらない心の空洞の淵にしゃがみこんで、おれはひとり、聞き分けのない子どもみたいに泣いた。


02.
寄り添うようにそばにあった存在に、惹かれていたのは事実だ。 なんの気持ちも、礼の一言すら伝えられないまま消えてしまったあいつが、やがて現れた「忍足謙也」という人間と本質を同じくしているのだということは、どうしたって理論的な説明などできないけれど、間違いないと思う。
姿かたちの似通った一人とひとつに、取り返しのつかないほど 心が深く引き寄せられてしまったいまになって、まるで言い訳のようだけれど。


謙也の金髪はこちらが捜すにはこれ以上ない目じるしだった。 人ごみをぬって近づくと、こちらに気づいたつり目がちの眼差しが、びっくりするほど一瞬で和らぐ。 細身の体型をよく理解した、たまに攻撃的な貴金属がついていることもあるけれどおおむねセンスのいい身なりの謙也がそういうことをすると、俺の前を歩いていた女の子なんかが あわてて振り返ったりするものだから、俺としては 「ええやろ、いまこいつに笑いかけられたんは俺やでー」という子どもっぽい優越感を覚えずにいられない。

「謙也、待たしてすまん」
「そんなん気にすんなや。 ただでさえ遠い教室で授業受けとるんやし、昼前は学食までめっちゃ混むやん。 あ、なに食う?」

本来なら医学部とはキャンパス自体が異なるから、同い年で同じように進級していればこうして昼食をともにすることはきっとなかった。 入院のための休学で、学年が一つ下になるのだという謙也は一般教養科目を受けるべく一週間の半分をこちらのキャンパスに通っていた。 忍足謙也 としてのこいつに、はじめて会ったのもそのうちの一つでのことだ。 思い返せばいまでも恥ずかしさで顔が熱くなる、傷心ぎみだった俺によるほとんどナンパまがいの出会いを、謙也は驚くほどの寛容さでもって受けいれ、以降 まるではじめから納まる場所が決まっていたかのような友人関係が続いている。

「からあげラーメン、タルタルソース2倍で」
「おま、白石 ほんまに好きやなそれ。 ちゅーかラーメンにからあげて……しかもタルタルソースて」
「せやから一回食うたらええねん。 あっ、やっぱラーメンは大盛りにしてください」

信じられへん。 俺のトレイを横目にとらえて、呆れた顔をする謙也の反応がおかしい。 学校として 水曜は午後の授業が組まれておらず、学食や学校近くで食事をしたり、バイトのない日にはそのまま遊びに出かけたりするのが半分習慣になっていた。
考え方に似たところがあるのか、好き勝手にしゃべっていても退屈しない。 かと思えば、会話の合間に沈黙が横たわってもすこしの息苦しさもないというまれな相手だった。 それが、外見を裏切り 呼吸にも等しくさし出される気遣いの賜物なのだと気づいたのはいつだっただろう。 そのときはじめてあいまいで愛しい存在から切り離された、忍足謙也という人間に興味をもった。
それからは、まるで坂道を転がるように。

学生で混雑するフロアで、折よく空いた窓際に座席を確保して落ち着く。 まもなく、大盛りのからあげラーメン(タル2倍)の乗ったトレイに乾いた音を立てて置かれたのは濃い緑色の液体がなみなみと注がれたグラス。

「あおじる?」
「おれのおごりやで。 たんとおあがり」
「ええ? べつに野菜は不足してへ……」
「つべこべいわんと飲め」
「はい」

だめだ、思うと同時に吹き出してしまう。健康管理のサポートもできます という名目で、名前のないあいつがそばにいたときも、からあげラーメンを注文するたび恨めしげな顔をしていた。 せめてサラダ食えば、という口の悪いアドバイスも受けたことがある。 おまえを心配してのことだと、どんぶりをにらむ目が言外にいっていて、おかわいらしいことだと思った。
怪訝な顔でこちらを見やる謙也に気づいて 思い出し笑い、と謝れば すかさず エロ石め、とからかわれる。

「ひどいわ、謙也くんのことやで」

エロくはないけど。 上目遣いにほほ笑んでみせると、ばっ、とかなんとかいうおかしな声をあげて、目の前の顔がみるみる赤くなっていく。

一般的な友人関係において、こういうやりとりが不自然だということは理解しているつもりだ。 けれど、友だちとして 俺をたいせつにしてくれようとしている謙也を裏切ることと知りながら、俺はそれではとうてい足りなかった。
差しだした腕が空を切るむなしさを知ってしまった。 俺のことなんてひとかけらも覚えていなくても、今またそばにある存在を失ってから悔やむことだけは、絶対にしたくない。

「さいきん、おれなんかおかしい」
「うん」
「こんな、ふつう赤くなるとこちゃうやろ」
「うーん、僕としてはなんも問題ありませんけど」
「なんなん、おまえ……あーどうしよう」

おかしいことを いやだといわないことが、どれほど俺に希望を与えているのかなんて、ちっとも分かっていなんだろうと思う。 はやく知ってほしい。 はやく 安心がほしい。


03.
色味の薄い瞳は驚きに見ひらかれ、やがてじんわりと水の膜に覆われた。 まばたくたび、風でも起こりそうな長いまつ毛の描くカーブが、誰にも模倣を許さない曲線を保ったままそっと伏せられる。 そうやって、ちょっと上目がちにおれと視線を合わせると、ととのった細い眉根を寄せ、無理してほほ笑んだ表情なんて思わずはっとするほど美しいものだった。
まるで。 まるでそう、ずっと捜しつづけていた運命の相手に再会したような。 なんていうと、おれではとても力不足な気がするけれど。

そいつとおれのあいだを遮るものはない。 しばらく音もなかった。 呆然としていた、というのが一番近い。 画像処理が追いつかなくてフリーズしたパソコンみたいに。 だから、そのきれいな人間に尋ねてよこされた問いかけを脳が認識するまで 常になく時間がかかった。 

「ーーは?」
「あ、えーと、自分の名前、教えてほしいんやけど」

あ、男やな。 きれいだけれど、間違いない。
その瞬間に周囲の雑音が洪水のようになだれ込んできたのは、我ながら現金としか言いようのないリアクションだった。 さすがに男の運命の人にはなれまい。
とたんに、見とれた自分が恥ずかしくなってお茶を濁すように忍足謙也や、と名乗った。

「忍足、くん……やな」
「あ、謙也でええよ。 そのほうが呼ばれ慣れとる」
「けんや」
「うん」

噛みしめるように、何度かおれの名を口にする。
初対面の人間に、そんなに大事にあつかわれるような たいそうな名前だろうかと思いながらも、そいつの次の行動を待てるくらいにはまだ頭が正常に機能していなかったし、そのあとには授業も入れてなくて、おれはたぶん暇だった。

「白石蔵ノ介」
「それ、自分の名前? 蔵ノ介?」
「ん、でもちょっと大袈裟やろ? 白石でええよ」
「しらいし」
「うん」

たしかに、お出汁より コンソメで育ちました、という顔をしていると思う。 けれど、見かけのやわい雰囲気をきゅtっと引き締めるようなその名前はひどく似つかわしいような気もした。 初対面でなにを、って感じやけど。
自分で仕向けたわりに、白石と呼ぶとまたちょっと困ったように笑うからおれもなんだか困ってしまってそれ以上言葉を継ぐことができなかった。

入院とリハビリに費やした数ヶ月の影響で中途半端な時期に中断して、中途半端な時期に再開した大学生活は、白石と打ち解けたのをきっかけにまたぎこちなくも回りはじめたように思う。 そういう意味でも、今となっては感謝してもしたりない出会いだった。
だがしかし、そもそものその出会いのシーンだけを取りあげていえば ほんとうに唐突なもので、おれが一歩引いていたら白石にたいする印象も、半年後のいまのこの関係も180度 違ったものになっていただろう。

だって、これでおれら仲良くなれると思う?
微妙くない? やー、微妙やろ。

「ひどいなあ。 ユウジ、なんかいうたって」
「いやー、会って10秒で『名前教えて?』 はないやろ。 よう謙也はそんなナンパに引っかかったなあ」
「あれナンパやったんかあ」
「謙也まで……」

白石つながりで知り合ったユウジは、当の白石を交えずに遊ぶことがあるくらい気が合う。 今日も、脈があるのかないのかいまいち判じがたい想い人のために いそいそとセッティングした飲み会で、一軒めからだいぶ飛ばして この時間あたりの暴言はたぶん明日には忘れている程度にすっかりできあがっていた。

「蔵リンも、会って10秒で『結婚してください』のユウくんには言われたくないやろなあ」
「そんないけずな小春も愛してんで! 結婚して!」
「まず素面で言えるようになったら考えるわ、ね、ユウくん。 ……蔵リン、うち ちょっと化粧室」
「ん、ああ」
「あっ俺も!」
「謙也くんも、まだ帰らんといてね」

ユウジがいうところの「遠恋中」の相手、小春には今日はじめて会った。 海外留学から一時帰国中のところを、一軒めの和食料理屋に近い地下鉄出口まで白石とお迎えにあがったのだ。
おれらを見つけた第一声が「あらええオトコ、ロックオン!」、こいつも普通じゃない。 それからは、なにか口にするたび あることないこと見抜かれてすっかり気に入られてしまったらしい。 べつになおす化粧もはなからないだろうに、化粧室 という語感にまるで違和感がない。

ほいほいついて行ったユウジの背中を見送りながら、グラスにうすい水割りをつくる。 はずが、手酌させたことを詫びながら、横から白石が焼酎のボトルを傾けてきた。 だいなし。

「俺の友だち、あんなんばっかりやで」
「……白石、もしかして酔っとる?」

まったくフォローにならないことを、誇らしげにささやくちぐはぐさがおかしい。 酔ってない。 即答する酔っぱらいの吐息は、いちごミルクのカクテルの匂いがする。

「でも みんなめっちゃええやつやねん」
「せやな」
「謙也も、俺にはもったいないくらいやで」
「そらどうも」

肩に頭をもたせかけて、ふふ、とか気持ちよさげに笑う顔なんて、近くで見せられてしまった日には 勘違いしてしまう人間がいても仕方ない。 でも、白石がこんなふうに甘えた仕草を見せるのは、小洒落たレストランで着飾った女の子たちのまえなどではもちろんなく、どこにでもあるチェーン店の居酒屋の座敷、気のおけない人間たちのまえでだけだ。 他人行儀な笑顔なんかよりずっときれいなそれを、独り占めすることに喜びを覚えはじめたのはいつだっただろう。

「俺は、運命の人でもいっこうに構へんのやけどな」
「ーーあ、ほぬかせ」

こんな戯れが、心臓がきしむほどに嬉しい。
いつか、白石の思う通りになってしまう。 それがおれの思うものと一致してもしなくても、きっと、自分からそれを望んでしまう。 そういう意味でなら、白石はすでにおれの命運を握る 運命の人といってよかった。


04.
「なあ、まだ着かへんの」
「もうちょいやで。 この坂のうえがばーちゃん家」
「坂って……! てっぺん見えんこれのこと!?」

ぱたぱたという軽いスニーカーの足音があわてた様子で回り込んでくる。 ふだんはつり目がちの目を、めずらしく真ん丸に見開いた俺の携帯電話が、地団駄を踏みながら道の先を指さした。
こいつのおかげで、電車とバスの連絡も、新装オープンしたばかりの駅ビルも楽に通って来れたけれど、さすがに徒歩は勝手が違うらしい。

「せめて番地教えて……ゴールの見えないマラソンは苦行以外の何者でもないで」
「それがなあ、場所は分かるんやけど」
「……GPS機能の長時間のご使用は、電池をいちじるしく消費します」

げんなりと棒読みでよこされた台詞に、それは困る と手を差しだした。たしかに、朝からの移動で電池の残量は半分以下まで減っている。

「ばあちゃん家からの景色がめっちゃきれいやから、それを見せたくて来たのに、おまえが電池切れてたら意味ないやん」

かばんにでもポケットでも、望めばいつだって携帯電話の形に戻れるのだから、あとは着くまでおとなしくしていればいい。 立ちつくす携帯のまえに かざした手をゆるく振れば、悔しげに睨みつける眼差しのなかに、しかしたしかに逡巡があった。

祖母の家は海に面した小さな港町にある。 なだらかな山手に古くからの家々が並び、中腹からは車ではすれ違うにも苦労する細い坂道が入り組んでいる。 いただきに近い界隈からの眺めは初めて訪れる人間なら驚くほどの景観だけれど、それはつまり、この呆れるほど長い道のりを経てこそ得られるものだということだ。

「いい。 やっぱりいっしょに歩く」
「ん、そうか」

小さな子どもがするように 手指を握られた。
熱くも冷たくもない、けれどたしかにそこにある気配。 どう位置づけたらいいのかも分からないまま、あいまいな存在に ただただ惹かれていた。

「白石……汗びっちいで。 おれ防水やないし」
「つないできたんはそっちやろ」

ゆるやかに続く斜面を、ひとり言をいいながら進む俺は、はたから見ればそうとう怪しいに違いないが、ありがたいことに行きかう人もない。 通りすがりの庭先に植わった金木犀が香る。 ほんとうは夏に連れてくるはずが、40度近い気温のなかでこの坂を上る気になれずに断念し、10月の連休にリベンジの運びとなったがなかなか悪くない。 自画自賛。
塀のうえで日なたぼっこに勤しんでいた猫が、俺の連れのほうを眺めて短く鳴いた。 にゃあ、と挨拶を返す声が斜め後ろから聞こえて、思わず吹き出したりもした。

「なあ、こうやってだれかれ連れてくることあるん」
「いや、はじめてやで。 友だちとかも連れて来たことないしな」
「……ふうん」

漠然と、こいつには本来生きるべき場所がほかにあるような気がしていた。 同時に、俺の手のひらがそうならどんなにいいかとも思う。 だから、たぶん違うのだ。 日々暮らしをともにするなかで感じる小さな違和感、それはきっと名前さえ失ってしまったこいつに残された、本質のかけらだ。

だから、なにか与えたかった。
俺のそばにある存在のためだけの。 

「ほら、もう着いたで」
「うん?」

たとえば、俺としか見れない風景、感じられないもの。 もしも、いつか会えなくなる日がきても、今日見た景色はこいつのどこかに刻まれて、残っていく。 来た道を振り返った瞬間、こいつの見せた表情を俺が決して忘れることのできないのと同じように。
それは祈りにも似た願いだった。



ふ た り



ひしめく家々のふもと、目と鼻のさきから とつぜん濃い青緑色の海が現れた。 山の緑を写しとったようなその色は、入江の外に向かって徐々にその青を鮮やかにしていく。 そうして、水平線まで遮るもののない大きな水面は、目を凝らしたさきで 高い秋の空を抱くように横たわっていた。

振り返ったさきに見た、性質の異なる二つの青が交わる眺めは、ここまでの坂道が長かった分だけ感慨もひとしお。 それはたしかだけれど、不思議とはじめて見た気がしなかった。

「テレビで見たんかなあ。 あ、知ってる って思った」
「……ほんま?」

ふだんは無駄に美声の白石の声が、呆然としたように響いた。 焦って言葉を継ぐ。

「あ……白石がせっかく連れてきてくれてんのに、野暮なこというてごめん」
「いや、かまへんで」
「たぶん、めっちゃきれいやからどっかで見たの覚えてたんやと思う。 自分の目で見れてよかった」

ありがとう。 と告げながら見やった白石の、ちょっと泣きそうな笑顔に驚いた次の瞬間。 坂道を登りきっただけの住宅街の往来で、おれは白石に抱きしめられていた。

「ちょ、白石!?」
「……へーき。 猫くらいしか通らへんよ」

おれの懸念を察して、白石が耳もとで低く笑う。 しばらくすると、その言葉通りに まるまるとした灰色の猫が、おれたちの足もとを素通りしていった。 あまりの無関心ぶりに肩の力が抜ける。 しなやかな背中に腕を回して、深く深く息を吐いた。

このぬくもりだ。漠然と、けれど確信する。 この体温に出会うずっと前から、おれはそのあたたかさを知っていた。
これがほしかった。

「しらいし」

いつかつかまえそびれた名前も、そんな響きだった気がする。


111128


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