近頃は謙也の突拍子のなさにもけっこう耐性がついてきたな、と思ったのは我ながら認識が甘かった。 土曜日、午前だけの部活を終え、用事があるからと足早に帰宅する後ろ姿を見送った数時間後、もしご都合がよろしければ、と謎の敬語で夕食に誘われた。

――ほいほい来てみればこれだ。
親戚の、まだ小さな子どもたちが大勢で来ていたのだというリビングは心なし雑然としていて、がらんとした広い空間にはどこか優しい砂糖の匂いが漂っていた。

「絵本のカステラ食いたい、いわれたんやけど カステラの作り方とか知らんし、しゃーないから代わりにホットケーキ焼いてん。 まだちょっと胸やけしてる」

これ、と携帯で示されたのはまるで、ホットケーキミックスの外箱にあるような一枚一枚ふっくらと厚みをもって焼きあげられ、さらにそれが大ぶりの皿に十枚近くも器用に重ねられたもの。 きつね色の頂きには四角く切り出されたバターが角をほんのりと丸くしながら鎮座していて、その上からしたたるメイプルシロップと混じりあって、空腹中枢に訴えかける視覚効果は抜群だった。

「これ一人で? すごない?」
「ふはは、すごいのはホットケーキミックスの兄貴ですけど!」
「ほう、それで兄貴は? もう残ってへんの?」
「や、冷蔵庫にはまだおるから、飯食ってまだ入るんやったらチンしてバニラアイス乗っけて出したるけど」
「絶対食う」

謙也は、中学生の身の上には必要十分以上に料理が上手かった。 しかも早くて美味い。 なにかと多忙で家を留守にしがちなご両親に代わって、家事全般一通りこなせるようだけれど、なかでも料理の手際と味のよさは抜きんでていた。
たとえば、付け合わせの一品にすぎないきんぴらのために、加工されたものでなくわざわざごぼうを笹がきにする手つきなんて、ちょっとないくらいセクシーだと思うのだけれど、当の謙也にはひどく残念なものを見る目で「嬉しいけど、それ教室では言わんとってな」 おまえのためやで、と念を押された。 思い出すたび、ちょっと胸が痛む。

「えーと、白石を呼んだんはこっち」
「……ほう」

そして冒頭の反省に続く。
白い、たぶんホットケーキが乗っていたのと同じ大きさの皿に山盛りのスパゲッティナポリタンが、山盛りに山盛られていた。 驚きすぎて同じ言葉を三回も繰り返してしまった。 まだできたてらしい、淡く湯気が立ちのぼる明るいオレンジ色をした山のいたるところに、こちらもたぶんお手製のミートボールが転がっている。 正直、小さめのハンバーグといってもいいそれはミートボールとしては規格外に大きいに違いなかった。 それが どうしてミートボールだと分かったのかといえば、カステラを作る小さなねずみたちの絵本に重ねられたDVDが目にとまったせいだ。

「ぐりとぐらにレディとトランプ? 忍足家の情操教育はぜったいジブリやと思ったんやけどな。 意外」
「うちはそうやで? これもチビたちとはじめて観た」

真新しいパッケージを指先でなぞる仕草は存外に優しい。 ことあるごとに従兄弟の映画の趣味を笑いのたねにしてみせる謙也にも、その血筋はわりあい色濃く受け継がれていると思う。 と、口にしたことはまだない。
驚くほど古いアニメーション映画だけれど、うちでは母親の気に入りのタイトルで、小さなころから台詞を憶えてしまうくらい繰り返し観せられて、その度に夕食のテーブルにはスパゲッティが並んだ。

「まあ、どっちも観たら食べたなる気持ちは分かる」
「そやろ? ほんま、遠慮とかしやんでええからな」
「あほ、加減ちゅーもんがあるやろ」

ほなどうぞ、とうやうやしく椅子を引いてくれた手に従って食卓につく。 山盛りのパスタのお供はあたたかいけれど具の少ないスープと黒烏龍茶。 野菜を入れるスペースがあるなら麺を食えということだ。 あかんこいつ本気や。 ぜんぶたいらげる気でいるらしい。 やや茫然としたまま、向かい合った謙也と二人で行儀よく「いただきます」をした。

「…………」
「…………」

黙々とした時間。 予想通り、わりと壮絶な戦いだった。

「…………」
「…………うっ」
「はは、謙也いま『うっ!』ていうた」
「うるさい。 白石もフォーク止まってんで、……あー、なあ、無理はせんでええから」

一転して弱気になるからいけない。
突拍子のないところもあるけれど、謙也は基本的に常識人だから我に返るとこんな顔をして引いてしまう。 そうされると、逆に是が非でも叶えなければと思ってしまうのは俺だけのことではないようだった。
だから、謙也がかかわると、とたんに譲れないものがどっさり増える。 あれもこれもと抱えこんだ欲張りな俺は、両手いっぱいの一つ一つが幸せだと知っていて、他人の手に移れば姿を変えてしまうかもしれないそれをかけらだって渡すことができない。

「食べます。 ぶっちゃけ量はあるけど、これほんまに美味いから。 絶対トミーのより美味いでこれ」
「そ、そう……」
「はやく『謙也くんのご飯美味い美味い』って毎日言えるようになったらええのになー」
「そ……」
「……あれ?」

標高が半分ほどに減ったスパゲッティの山の向こうで、言葉をなくした赤い顔がうつむいている。 見ず知らずの人から頻繁に迷惑を被るせいで近しい人間相手でも声になりにくい素直な賞賛は、珍しくもほんとうに本心からのものだった。 ――ああ、だからか。

ただ謙也の歓心を買いたいのなら、もっと効果的な言葉をいくつでも挙げることができる。 と思っていた。 しかしながら、それは俺の壮大な勘違い以外の何者でもなくて、こうして謙也の心に届くのはいつだって下心も打算も超えたところから転がり落ちるような、思いがけない一言だったりする。
それに気づくたびに、こいつを言葉で繋ぎとめるのはきっととても難しいのだと思い知らされた。 謙也が好きだというほかに、なにも持たないいまの俺はすっかり途方にくれるしかないわけだけれど。

「……食事は当番制。 それでええんやったら、べつに」
「うん」

もしかしたら、いっしょに暮らすいつかの俺たちを、現実味をもつものとしてはじめて想像してくれたのかもしれない。 予期せず二人をくるんだ常にない甘酸っぱい沈黙に、先に耐えられなくなったのは謙也だった。 これがドラクエなら 「けんや は こんらんしている!」のテロップが出てもおかしくない忙しなさでスープを飲み、グラスのウーロン茶をあふれさせ、取り皿を使い忘れたままスパゲッティの山に飛びかかった。 あ間違えた、とりかかった。 しらいし も こんらんしている。

大ぶりのミートボールを先に皿によそい、麺の山の中腹あたりにフォークを突き立てて勢いに任せて巻きとる。 途中、謙也が小さく声をあげるのとフォークがなにかに引っかかる感触がほぼ同時。

できすぎだと笑うだろうか。 謙也のくちびるからオレンジ色の山へと延び、一度スパゲッティのいただきに埋れた麺の先には俺のフォークがある。 へひふひひゃ。 ピンと張ったパスタ麺をフォークの先で揺らし、謙也は呆れたように笑った。 その笑顔に、星の降るきれいな夜にトランプがレディと想いを重ね、幼な心をおおいに震わせたあの場面が頭のなかに広がって、もう、いてもたってもいられない。

左手のフォークで謙也とつながった麺だけを上手く選り分けて、あんまり長かったからすこし巻きつける。 そのあいだに右手で謙也の顎をつかみ、テーブルに膝を乗りあげた。 おもむろにフォークをくわえると、くちびるとくちびるのあいだが赤い糸でつながった。
途切れてしまわないように、くちびるでたぐりよせる。 誰の目もないところでなければ手をつなぐことさえできない俺たちには BGMなんて付かないので、ベラ・ノッテは俺の鼻歌でカバー。
そうして肝心のキスはといえば、トマトケチャップで汚れたくちびるが滑って鼻がぶつかる始末。 かえってオリジナルに忠実になったと、声をあげて笑った。
映画みたいに上手くはいかない。



いつものような夜



「いま、ぜったい笑いの神様おった」
「おまえ開口一番それか」
けれど、たぶんそれでよかった。


111006


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