薄い夜の闇に沈んだ部屋を大きく切り取った窓の外は一面、きらめく街の光に満ちて、まるで別世界を望むようだった。 にぎわいは大阪だって決して負けていないと思う。 けれど、どことなく、光のまとう色が違う気がする。
先を行く謙也の肩越しにその光景を目にして、俺は思わず息を飲んでしまった。

「めっちゃいい部屋なんとちゃう、これ」

手にしていた一泊用の小さなボストンバッグを床に落とすと、部屋の奥へ進むごとに革靴と靴下を足跡の代わりに残しながら、謙也はたいそう機嫌よさげだった。
その足取りは、今日一日で摂取したアルコール量にしてはしっかりとしていたけれど、窓ガラスに額を預けて大げさなくらい驚いてみせるそのかたわらで、わざわざ今日のために買ったネクタイも、礼服のジャケットもまとめてソファの背凭れから床に散らばっているのを見るにつけ、我に帰って苦笑がこぼれた。

謙也といるとき、もしかして気まぐれな猫の飼い主というのはこんな境地にいるのかもしれないと思うことがある。 たしなめても見て見ぬふり。 なにかに夢中になっているときには背中ばかりを見せるくせに、こちらがほかに気をとられる瞬間は絶対に逃さない。 もっとも、俺のそばにいるのは、普段はなんでも一人でこなしてしまう自立した成人男性であって、たまのこういった振る舞いが、まるでかまってほしいときの甘えるしぐさに映ってしまうのだからどうしようもなかった。

よく磨かれた靴は放ってあった靴下を詰めこんで鞄とともに壁際に寄せ、自分は備えつけのスリッパに履き替える。 ネクタイとジャケットを拾い、ハンガーにかけて皺にならないよう甲斐甲斐しく世話を焼いていると、ご機嫌な酔いどれの猫から今日何度めかになる台詞が聞こえた。

「それにしても、ええ式やったなー」
「……そやなあ」

謙也と出席した結婚式の感想だった。 大学から一緒になった共通の友人が本日の新郎で、東京で式を挙げるのだけれど、という申し訳なさそうな招待を喜んで受けたのだった。
家族と親しい人間たちだけのささやかな宴は、終始笑顔にあふれて、誰もが二人を祝福していること、なにより当人たちの喜びが控えめにも空気を伝わって感じられるあたたかなものだった。

謙也との関係を了解したうえで付き合ってくれた数少ない友人は、俺にとっても間違いなく大切な存在で、幸せを願う言葉は素直に形になった。 謙也にいたっては、よかったなあ、とつたない祝辞を補って余りある半べその泣き笑い顔で何度も言葉を重ねていた。 そういう、自分の感情に正直なところだとか裏表のない優しさが謙也の誰からも愛される理由なのだと思う。
それが誇らしくて、同時に胸を苦しくさせた。 愛しくて切なくて、ほんのすこし申し訳ない。 うまく説明もできない。

「なんでそんな顔するん?」

すっかり整えられたジャケットから顔をあげると、窓に向かってしつらえられた大きなソファに沈んだ謙也が首を傾げていた。 笑みを含んで、困ったような声。
明かりをつけていないせいで、外から射す青白い光に縁どられた表情を読み取ることができない。

白石。
焦れたように名前を呼ばれ、腕が差し伸べられた。 皺を伸ばしたばかりの上着をまた同じあたりに放り出すと、ソファに片膝をかけて、求められるままに謙也の身体を腕のなかにとらえた。
二人分の重みを受けてクッションが静かに沈んでいく。 もしかして本当にいい部屋なのかもしれない。

そうして指の長い手のひらが二つ、両頬を包むように添えられる。 いつもより高い体温。 額同士を触れあわせると暗がりにもその表情ははっきりと視認できるようになった。 出会ったころより端正さの際立った顔がいたずらを思いついたようにほころんだ。

「白石は、おれとおって幸せ?」
「そらもう、過ぎるほどやな」
「ふふ、120点の解答どうも。 なあ白石、おれ、自分が満たされてもないのに人の幸せを手放しで喜んでやれるほど人間できてないで」
「けん、」

唐突な問いかけに、その意図を推し量る余裕もない。 思ったままに答えると笑顔はいっそう深くなった。 言葉が遠回りするのは本音を包んでいるからだと、俺はすでに知っていた。 きっと謙也も。

「今日はおれの知ってるなかでも特別いい式やった。 でもな、白石が笑ってくれて、おれのとなりにいてくれて、おれはおれが世界で一番幸せやって思ってたし実はいまも思ってるん…………あ、根性曲がりすぎててがっかりした?」
「そんなわけ、ないやろ」

いつだってそうだ。
なにか不安になったり、困っていることを、謙也はすぐに察して一番ほしい言葉や助言を絶妙なタイミングで与えてくれる。
そのくせ、まっすぐに礼を言えばきょとんとした顔で、なんのこと? とか聞き返してくるのだから、それは謙也の本能に備わった魔法のようなものだと理解するしかない。

鼻の頭が痛んで、視界がぼんやりとゆるむ。 情けない顔を見られたくなくて、鼻先を擦り合わせるように口づけた。 静かな部屋のなかで、衣擦れや息づかい、交じる髪が立てる乾いた音がことさら大きなものに響いた。

昼間に謙也が口にしていた甘い酒の匂いがして、ひなたで笑う顔がゆらぎながら浮かんでは消えていく。 謙也のとなりで、俺はそんなことばかり考えていたというのに。
同性同士で恋に落ちて、ひだまりのような人間に、誰にも祝福されることのない道を歩ませる罪深さと幸福が胸のうちでせめぎ合い、おかしくなりそうだった。

「そんな思いつめるほど険しい道ちゃうやろ。 親兄弟に認めてもらえて白石には好き放題甘やかされて、おれはこれ以上わがまま言われへん」
「……いま声に出してた?」
「顔でだいたい分かります。 何年いっしょにいると思てるん」
「もう、敵わんなあ」

いったいどちらが甘やかされているのだろう。 謙也を抱いたまま、ソファに転がった。 腕のなかで声を立てずに笑うぬくもりのための俺でいられたならと、願わずにいられない。

「謙也、俺といっしょにおじいちゃんになってくれる?」

ほんのりと熱を帯びた謙也の耳のふちにくちびるを押しつけて、祈るようにささやくと、そっと目蓋が持ちあがった。

「うん」

短い頷きは驚くほど真摯な響きを帯びて、吸いこまれそうなほどまっすぐな目は強い光を閉じこめていた。
そうして、溶けるようにほほ笑んだぬくもりがもし俺のためのものだったならそれは、どんなにか。



Made For Each Other 


紀子さまへ
リクエストありがとうございました
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