※ 忍足家捏造 注意


額から目もとにかかる淡い色の髪の下、まつ毛に縁どられた薄い茶色が緩慢にまばたいて、それから、そろりと俺を視界に映してくれる。 やがて、ちょっと照れたように細められる瞬間をどうしようもなく愛しく思いながら、おはよう、と声をかければ、眠気の抜けない吐息で同じ挨拶が返ってくる。

「……もしかしてまた見とったん?」
「うん、ついつい」
「もう……先に起きとったなら起こしてくれればええのに。 たいがい悪趣味やで」
「せやな、まあ、あと10分して起きんかったらキスでもしたろ、とは思ってました」

うつ伏せのままマットレスに両肘をつくと、隣でいまだ半分枕に埋まっている謙也を見下ろす格好になる。 徐々に意識がはっきりしてきたのか、つり目気味の眼でベッドヘッドに置かれた目覚まし時計を睨めつけ、不満気に鼻を鳴らしてみせた。

「いつもより30分も早う起こされて、ちゅーもなしとか、よう分からんけどめっちゃ損した気分」

ラグランスリーブに包まれた腕が毛布から持ちあがった。 音をたてずに首に回されたそれに引き寄せられていく。 顔がだらしなく緩むのを止めようがなかった。

「アホ、あんまり可愛いこと言わんとって。 いつでもしたるわ、っちゅーかいつでもしたいわ」
「アホは余計やアホ。 あ、あと口にするんはおれが歯みがいてからにして」
「律儀やなあ」

寝起きの体温を謙也の身体ごと腕のなかに閉じこめて、ベッドのうえを転がりながら頬や額、つむじに口づけて笑いあう。 歯みがきをしてキスをする時間を考えたら、30分早く起きても足りない気がした。



愛し



濃いめのコーヒー、とろけるバターと空気をはらんでふっくらとしたオムレツのやさしい香り。 湯気の立ちのぼるスープと、したたるような新鮮なサラダが、視覚でも食欲をそそる。 洗面所からフラフラと吸いよせられるように辿りついた忍足家の食卓は、春のほがらかな光に満ちてたいそう魅力的な場所だった。

「ああ、蔵ノ介くん。 おはよう」
「おはようございます、万里子さん」

万里子というのは謙也の母親の名前だ。
いつだったか、冗談交じりに「名前で呼んで」と直々にお願いされたことがあった。 自分の母親もたいがい化け物のようだと思っているけれど(小学校の入学式とついこのあいだの高校の入学式の写真の顔が同じとか、ほかに考えようがない)、正直なところ、とても高校生の子どもがいるとは思えない若々しい外見に「おばさん」と呼ばわるのがどうにもはばかられていた俺は、本人に呼びかけるときにだけそれを採用させてもらっている。
血のつながった息子であるところの謙也でさえ、なにごとか母親に直談判する場合は名前で呼んでいるらしい。 そのほうが心証がいいということならば、謙也のご両親の印象をよくしたい俺が実践しない手はなかった。 主に彼氏的な意味で。

出勤前なのだろう、パンツスーツのうえから身につけていたシンプルなエプロンを脱いでたたみながら、飲み物はカフェオレでええかしら、と尋ねられた。 あとからダイニングにやってきた謙也が、おれもー、と返事をしながら右隣の椅子を引く。 謙也といっしょで大丈夫です、と頷いた。

「翔太は?」
「もうとっくやで。 新一年生が今日から朝練らしくて、先輩は準備があるんやて」
「ふーん」

母親と会話を交わし、こんがりと色づいた食パンにバターとママレードジャムを塗りながら、サラダとオムレツを半ばまでたいらげる。 いつもながらまったく無駄はない、けれどもう少し味わってもいいのではと心配になる早食いっぷりだ。

「はい、どうぞ」

白い手にはカフェオレで満たされたマグカップが二つ。 謙也の方が少しコーヒーの分量が多めにつくられている。 中身に気をとられていたせいで、礼を述べて両手で受け取ろうとしてはじめて気がついた。

いつもは、華奢な持ち手のついた花柄のティーカップなのに、今朝は謙也が使っているものによく似た大ぶりの無地のマグカップだ。 これは謙也のでは、と隣に首を巡らせると、ちょっとばつの悪そうな顔でカフェオレを啜っている。 傾けられたカップは、いま俺の手のなかにあるのと同じもの。

窺うように視線が万里子さんへと流れたのを追った先では、呆れたような硬い眼差しが息子へとそそがれていた。 このヘタレ、とグロスのつやめくくちびるが声に出さずに吐き捨てる。 びくっと右隣の肩が大きく震えた。
俺の方へ向きなおると、まるで満開の花で結われた花束みたいに笑った。 そうすると、俺の大好きなひとの笑顔はこの血筋によるものなのだと実感する。 謙也にとてもよく似ていた。

「今日お誕生日なんでしょう? おめでとう。 いつもよくしてくださるのに、よそよそしいお客様用の食器を使ってもらうのがしのびなくて……買っちゃった!」
「ちょ、買ったのおれ!」
「謙ちゃんは黙っとき」

ぴしゃりと遮られて、謙也が肩をすくめるのが分かった。 カップに視線を戻す。 指先に触れる深い緑色の陶器はなめらかで美しい。 牛乳多めのやさしい色をたたえた水面には、なんだか情けない顔が映りこんでいる。
俺の腰かけたテーブルの横、床面に膝をついた万里子さんは、少し低いところからゆっくりと言葉をつむいだ。 このひとのはきっと、職場の患者さんにもそうしているのだろうし、小さな謙也たちにも同じ目線で接してきたのに違いない。

「わたしのせいでいたらないところも多いけど、むしろいたらないところしかない子やけど、どうぞこれからも仲良くしてやってくださいね」
「ちょっと!」
「……ありがとうございます」

たいせつにします。

思い切って付け加えた言葉は謙也を指して言ったつもりだった。 でもきっと、やっと高校にあがったばかりの俺が口にするにはその約束はあまりにも軽い。 悔しいけれど、いまはもらった器のことだと思われても構わなかった。 いつかかならず、もう一度このひとに謙也の幸せを約束する。

「ありがとう」

強い眼差しは、ふ、と笑みに溶けた。
俺の願いは余さず白い両手にすくいあげられる。 お茶碗とお箸もあるから 今度は夕飯も食べて行って、と首をかしげた万里子さんは、すべてを知ったうえでその言葉を選んだように思えた。

「軽く予想はしてたけど、そこまでされると申し訳ない」
「……なんでやねん」

指の長い手が、膝のうえで握ったこぶしにそっと重なった。 息を吸うと、鼻が すん、と音を立てる。 にじむ視界は空いた手の甲で乱暴に拭った。 どうしたって、もう一度顔を洗わなくては学校になんて行けない。

戸締りを申しつけて万里子さんが出かけてしばらく。 一言も発しない俺に、しびれを切らして顔を覗きこんできた謙也がぎょっとしたようにこぼした台詞がそれだった。 なんだか失礼なニュアンスを察知して、突っ込まずにはいられない。

「やって、おれん家とはいえお泊まり用に食器揃えたりされたら白石重ない? 微妙やろ? 正直微妙やろ」
「おまえが買うたんちゃうんかい」
「っそうやけど! 買ってから思ったんや。 でもおかんもおとんも乗り気やし、遠出してもらった手前、」
「ええ? 万里子さんは分かるとして、なんでおじさんまで出てくんの?」
「……なんでって、みんなで買いに行ったんや、それ。 おれと同じのにしたい、言うたら萩の窯元でしか売ってへんて言われて」

あかんかった?
いっそう不安げな色を帯びる声に、首を振る。 右手に重ねられた謙也の手指を、下から指のあいだに挟みこんできつく繋ぎとめた。 一度は止まりかけた涙がまた目の縁に溜まっていくのが分かるけれど、どうしようもない。

「たいせつにする」

謙也を。
謙也を育んでくれたひとの気持ちを。

「ん、」

上体を傾けた謙也のくちびるが目もとに押しつけられる。 やわい感触が水滴を拭って、間近ではにかむようにほほ笑んだ。
嬉しいだけの涙じゃなかった。 だけど、こうしてそれを拭ってくれる謙也がそばにいてくれるのなら、俺は一生、この手を離さずにいられる。 そう思えた。


110416


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