遠い昔、誰かが言った。 人を愛することは人を愛さないことだと。 「お兄ちゃん、いらっしゃい!ずいぶん遅かったね」 秋山家の玄関で俺を出迎えたのは今年の春に大学生になった姪っ子の百合だった。 普段は寮で暮らしているのだが、休日にはよく実家に帰って来る。 俺は車のキーを上着のポケットにしまうと、先日取材先で買って来た菓子箱の入った袋を百合に渡して家に上がった。 「途中渋滞につかまってな。…ほら土産だ」 「わ!これこの前TVでやってた有名店のお菓子じゃん!ありがとお兄ちゃん!」 大学に入って少しは落ち着いたかと思ったが、こういうところは昔と全く変わらない。 「食い過ぎるなよ。腹壊すから」 「お腹なんか壊さないよ。もう子供じゃないんだから!」 「菓子で喜ぶんだから十分子供だろ。だいたいこの前会ったときダイエットするとか言ってなかったか?」 「うっ…お、美味しいお菓子は太らないから平気だもん」 よくわからない理屈を捏ねる百合に俺は苦笑しながらリビングのドアを開けた。 清潔感の漂う広々としたリビングの中央には少し大きめのテーブルが置いてあり、奥に見えるキッチンを背にする形で百合の母であり俺の姉でもある静が座っていた。 「あら螢、おかえりなさい。遅いから心配してたのよ?」 「ああ、悪い。…にしても、ずいぶん大きくなったな」 以前会ったときよりも倍以上に膨らんでいる姉の腹に俺は驚きの表情を浮かべる。 「ふふ…そうね。予定日まであと半月だからきっともうすぐ会えるわよ」 「半月!?じゃあもうすぐだな」 「ええ。生まれたらたくさん可愛がってあげてね」 「私も楽しみだな〜。ずっと弟か妹が欲しかったんだよね。年はちょっと離れちゃうけどさ」 俺の向かいに座った百合も嬉しそうに大きくなった母の腹をなでる。 「百合ももう大学生だものね。本当に子供の成長って早いものね…」 しみじみとため息をつく姉に俺は思わず笑みをこぼす。 「台詞が年寄り染みてるぞ。姉さんも操さんもまだ30代だろ?」 さすがに若者とは言えないかもしれないが、中年と呼ぶにはまだまだ早い年頃だ。 とても大学生の娘がいるようには見えないし、同じ年頃でまだ独身の女性だって山程いる。 「あなたも親になればわかるわよ。毎日が長いようでとても短いんだから」 「そういうもんか?」 ふっと笑みをこぼしてコーヒーを口に運ぶと、百合が思いついたようにこちらを振り向いた。 「そう言えばさ、お兄ちゃんは結婚とか考えてないの?」 唐突な質問に危うくコーヒーを零すところだったが、どうにか押さえてカップをテーブルに戻した。 「何だよ突然」 「だってお兄ちゃんももうすぐ30でしょ?」 もうすぐって…三十路を超えるにはまだあと3年はあるんだが…。 「25を過ぎたらもうあっという間よ。誰か良い人いないの?」 「姉さんまで乗るなよな」 幾つになっても女という生き物はこういう方面の話が好きらしい。 娘と一緒になって身を乗り出す姉に、俺は小さくため息を漏らす。 「雑誌関係の仕事してるなら出会いも多いでしょう?ファッション関係ならモデルさんとか、良い人たくさんいるじゃない」 「あのなあ…」 「そうだよ!お兄ちゃん性格はともかく、顔と頭は良いんだからより取り見取りじゃん」 「おい、何だその性格はともかくってのは」 聞き捨てならない言葉だが、百合も姉さんも俺の話なんか全く聞いちゃいない。 「あら螢ってそんなにモテるの?」 「うん。前に友達と遊んでるときに偶然街で会って、みんなキャーキャー言ってたよ。あんなお兄ちゃんがいて羨ましいって言われたし。…まあ正確にはお兄ちゃんじゃなくて叔父さんなんだけど」 「そう言えば私も昔、先輩から言われたわね。可愛い弟がいて羨ましいって」 「そんなの初耳だぞ」 「あなたが鈍過ぎるのよ。人の事にはよく気づくくせに自分の事にはすっごく疎いんだから。どうして男ってみんな鈍感なのかしら」 「あ、それわかる〜。そういう所が可愛いってときもあるけど、正直見ててイライラすることもあるんだよね〜」 「そうでしょう?」 どんどん進む女同士の会話に口を挟む事もできず、コーヒーを飲みながら操さんが早く帰って来ることを祈るしかなかった。 「そう言えば螢、今度ファッション雑誌の撮影をするって言ってたじゃない?」 完全に蚊帳の外だった俺はぼんやりと考えていた明日のスケジュールを打ち消して思考を元に戻した。 「モデルさんとお近付きになるチャンスじゃない。頑張ってみたら?」 もうとっくに忘れてるだろうと思っていた話題がいつの間にか戻って来ていることに俺は内心ため息をつく。 「だから、俺は仕事で会うだけでプライベートのことなんか…」 「仕事をきっかけに知り合って結婚するパターンが一番多いのよ。私と操さんだってそうだもの」 「いやだから俺は…」 「いいじゃん!モデルさんなんて普通は高嶺の花なんだから、お兄ちゃんラッキーだと思わなきゃ!」 …全くどうして秋山家の女達は人の話を聞かない奴ばかりなんだろうか。 いや、母さんも話好きだったから柏木家の女がお喋りなのか? 俺は軽い頭痛を覚える頭に手をやって深いため息をつきながら答えた。 「残念だったな。今度担当するのはメンズ誌。モデルも当然男だよ」 「え?メンズ誌なの?」 「ねえねえ、そのモデルって誰?もしかしてSNOW!?」 目を輝かせる百合に俺は諦めにも似た感情で口を開いた。 「知ってるのか」 「当たり前じゃない!クール系モデルランキング1位だよ!?」 「あのちょっとミステリアスな横顔が素敵なのよね」 大学生の百合はともかく姉まで知ってることに内心驚く。 「はあ…そういうもんか?」 「もう!モデル撮影してるくせにそういう事には疎いんだからお兄ちゃんは」 「撮影するのと見るのとじゃ全く違うからな。…第一男に興味はない」 妙な疑いを掛けられても困るので一応念を押して置くが、二人の耳にはもう俺の声なんか届いちゃいないだろう。 コーヒーを飲み干してもう一度ため息をついたとき、玄関が開く音がして俺はほっと胸をなで下ろした。 どうやらやっとこの空間から脱出することができそうだ。 「お父さんおかえりなさーい」 「ただいま百合。やあ螢君も久しぶり」 「操さん、お久しぶりです」 「それじゃ夕飯にしましょうか。百合、手伝ってくれる?」 「うん!」 元気良く頷く百合を見ながら俺は鞄を持って席を立った。 「あら螢、夕飯一緒に食べて行かないの?」 「今日は様子を見に寄っただけだし、また渋滞につかまると厄介だからな」 「ちょっとくらいいいじゃないの。どうせいつもロクなもの食べてないんでしょう?」 俺は苦笑を浮かべつつ玄関へと向かった。 「この後も仕事が入ってるんだ。明日の準備もあるし、また今度手が空いたときに寄らせてもらうよ」 「相変わらず忙しそうだね、螢君」 「まあそれだけ仕事をもらえてるって事ですから、有難いと思ってますよ。それじゃ失礼します」 操さんに軽く会釈をして俺は秋山家を後にした。 no 次へ |