それは、村を出て一年が過ぎた冬のこと。 俺は妹を連れて、深い雪が降り積もる森の中を歩いていた。 「由紀、大丈夫か?寒くはないか?」 「ええ…大丈夫です…」 消え入りそうな声で答える妹の体は、心なしか震えている。 峠で出会った商人から今夜は雪が深くなりそうだと聞いていたのだが、まさかこれほどとは思わなかった。 俺達の故郷である鬼ヶ淵村にも雪は降るが、こんなに積もったことは一度もない。 聞いた話ではこの辺りに村があるはずなのだが、一面真っ白では見つかるものも見つからない。 日が暮れるにつれ風も強くなってきている。 一刻も早く村に辿り着かねばならない。 「兄さん、今あちらに灯りが…」 ふと隣で呟いた由紀が突然体勢を崩した。 雪でわからなかったが、どうやらここは崖の上だったようだ。 「由紀!!!」 とっさに腕を掴むが時既に遅し。 俺達は降り積もった雪と共に崖下へと転がり落ちた。 暗闇の中で最初に聞こえたのは、俺を呼ぶ妹の声だった。 視界に入ったのは泣きそうな顔でこちらを見つめる妹の姿。 「ゆ…っ」 声を出そうとして、俺は喉が詰まった。 首を横に向けて咳き込むと、白い雪の上に赤い飛沫が飛び散った。 同時に背中と腰に衝撃が走る。 落下したときに腰を痛めてしまったようだ。 由紀を庇って受け身が取れなかったことが原因なのだろう。 「兄さん…っ」 「怪我は…ないようだな…」 震える声で俺を呼ぶ由紀の全身に素早く目を走らせ、目立った怪我がないことに安堵する。 「何を仰ってるんですか…!こんな傷を負ってまで…私を庇ったりして…っ」 「約束したからな。何があっても…お前は俺が守ると」 左腕一本に全体重を乗せて無理やり上半身を起こすと、また喉を熱いものが通り抜けて俺は激しく咳き込んだ。 だがここでゆっくり寝ている暇はない。 日が完全に落ちてしまえば、方向感覚も狂ってしまう。 そうなる前に村へ辿り着かねばならぬ…。 「兄さん!まだ動いてはいけませんっ」 「っ…案ずるな。この程度…どうということは…」 辺りは雪に包まれ凍え死んでしまいそうな程寒いはずなのだが、今は体が熱い。 胸が、喉が、焼けそうだ。 「兄さん…っ」 それでも由紀の顔を見ると、いくらか体が楽になる。 村に残して来た弟達との約束通り、俺は何があろうと村へ戻らねばならぬ。 「しかしまいったな。崖から落ちたせいで方向感覚が…。どちらへ行けばいいのだ」 立ち上がってみたものの、先程よりも風は強まり視界は悪くなっていた。 ましてやここは森の奥深く。 目印になりそうなものもない。 せめてこの吹雪を凌げる場所を見つけなくては、このままでは凍死してしまう。 困り果てて辺りを見回していたそのとき、木々の間から山犬が顔を覗かせた。 「由紀、下がれ!」 俺は慌てて由紀を背に庇い身構えたが、背中に激痛が走り膝をついてしまった。 「兄さんっ」 山犬はこちらの様子を窺うように俺達の周囲を歩いている。 しかもこの山犬は俺達の故郷で目にする山犬よりも一回り程大きい。 山犬と言うのはときに熊以上に狂暴で恐ろしい一面を持つ。 地に膝をつけたまま山犬の動きを窺っていると、ふと由紀が何かに気づいて小さな声を上げた。 「あ……脚に傷が……」 よく見てみると、山犬の左の後ろ脚から血が流れ出していた。 それほど深い傷ではないようだが、この傷では満足に狩りもできぬだろう。 しかし、油断はできぬ。 「由紀、そのままゆっくり後ろへ…」 警戒したまま後ろを振り返ろうとした俺の目に映ったのは、俺の横を通り過ぎ山犬のもとへ歩み寄る妹の姿だった。 「おい、由紀!」 止める間もなく山犬の前まで歩み寄った由紀は、その場に膝をついてそっと両手で山犬の顔を包み込んだ。 「可哀想に…。この傷では歩くのも辛いでしょう」 慰めるように山犬の体をなでる由紀。 だが山犬は襲い掛かる素振りも見せず安堵するように両目を閉じた。 その様子に驚きながらも由紀のもとへ歩み寄る。 「全くお前は…どうしてそう無防備なんだ」 由紀は昔からそうだ。 病弱でおとなしい性格なのだが、時折思ってもみない行動に出ることがある。 その度に俺は肝を冷やすのだが、そういうところは清純とよく似ている。 優しさ故に自分より他人を優先することが多いのだ。 だがその優しさは時として愛する者を悲しませることになる。 清純がそれを承知の上で氷室の巫女を助けようとしたならば、その巫女は清純にとって由紀よりも重要な存在だったのだろうか。 己の命を投げ出しても救いたいと願う程に…。 「兄さん?傷が痛むのですか…?」 ふと視線を前に戻すと、由紀が心配そうな顔で俺を見上げていた。 「いや、少し考え事をしていただけだ。それより…」 由紀の傍らでおとなしく座っている山犬の左脚は、いつの間にか手当をされ布が巻き付けられている。 出血も止まったようだ。 「これからどうしたものか」 視界は完全に閉ざされ白い世界に囚われてしまったような感覚に陥る。 辺りを見回しても何も見えない。 途方に暮れながら一歩を踏み出そうとしたとき、山犬が立ち上がって吹雪の中を歩き出した。 しかしすぐに立ち止まって後ろを振り返り、こちらをじっと見つめる。 「…まだ何か用か?」 言葉など通じはしないが、山犬の目が何かを訴えているようで思わずそう問いかけてしまった。 すると山犬は大木の横に転がる岩の上に飛び乗り、遠吠えをした。 仲間に自分の居場所を知らせているのか、その行動の意味は俺にはよくわからないが、こちらに危害を加えて来る様子はない。 怪我の手当をした由紀を恩人だと思ったのだろうか…。 「とにかく先へ進もう。この辺りに村があるはずだ」 「でも兄さん、その傷では…」 「ここで立ち往生していても仕方あるまい」 俺は不安そうな顔をしている由紀の手を取り、先を進んだ。 吹雪で時折道を見失いそうになるが、その度に山犬が俺達を呼ぶように吠えた。 その声を頼りに積雪の中を進むと、蔵があった。 「村に…着いたのか…?」 雪に包まれているせいであまり自信が持てないが、蔵の屋根に降り積もった雪が下に落ちているところを見る限り人はいるようだ。 「兄さん、あちらに灯りが見えます」 そう言って由紀が前方を指差した時、蔵の中から物音が聞こえた。 その直後、頭一つ分の大きさしかない格子窓の向こうから人の声がした。 「何者だ?」 ようやく人里に辿り着いたことに安堵しながら口を開きかけた俺は、突然の激しい痛みに呻いて膝をついた。 「兄さん!」 気が緩んだせいか、今頃になって痛みも熱も増していく。 「私達は旅の者です。山で道に迷って兄さんが私を庇って怪我を…。どなたが存じませんが、休める場所は御座いませんか?お願いします…!」 朦朧とする意識の中で由紀の涙声が聞こえる。 「……中へ入れ」 「ありがとうございます…!」 絶え間なく押し寄せる痛みと熱に耐えつつ、俺は由紀の肩を借りて蔵の中へと入った。 蔵の中には格子で囲まれた座敷牢があり、牢の扉には頑丈そうな錠前が掛けられていた。 その中に俺と同じくらいの年の男がいる。 「そこへ寝かせろ」 男の指示で由紀が俺を蔵の床に寝かせる。 仰向けに寝た俺の姿をしばらく観察した後、男は奥にある棚から何か取り出して格子の前に座った。 「あの…」 不安げな由紀が口を開くと、男は手元に視線を落としたまま淡々と言った。 「傷の状態からすると熊ではなさそうだな。大方この雪で道を違え崖から落ちたといったところか」 「は、はい…」 薄らと目を開けると、格子の間から男が手を伸ばして紙に包まれた何かを由紀に手渡していた。 受け取った由紀は、俺が腰に提げていた竹筒を手に取って俺の顔を覗き込んだ。 「兄さん、お薬です」 薬…?男が由紀に渡したのは薬だったのか…。 ぼんやりとする頭の片隅でそんなことを思いながら、俺は薬と水を飲み込んだ。 no 次へ |