零ノ蝕 月光(天倉螢)
俺は病院のロビーで見つけたメモを手に、朧月館を訪れた。
病院の玄関に置かれた優雨のメモには、雫を捜しに朧月館へ向かうと記されていたが、ホール内に人影はなく、しんと静まり返っている。
しかし今はこの静寂が少しだけ心地が良い。
病院を出たのも優雨のメモを見つけたからというより、あの場所に長居をしたくなかったというのが本音だ。
病院の地下で見た"アレ"が何なのかはわからないが、すこぶる嫌な感じがした。
青藍色の着流しを着た片目の男。
人のようで人ではないもの。
あいつはいったい何者なんだ?
この島にはもう誰も住んでいないはずだ。
それともあいつは行方不明になっている少女たちの知り合いなのか?
…いや、ここで考え込んでいても仕方がないな。
今はとにかく優雨と合流して雫を捜すべきだ。
気持ちを切り替えて俺は朧月館の探索を開始した。
この朧月館は灰原病院の別館として建てられた建物で、一階は島外から来た客も泊まれるようになっているようだ。
朧月神楽が一般化されて観光化が進んだ影響だろう。
「麻生記念室…?」
月明かりが漏れる廊下を歩いていた俺は、扉の横に掛けられた表札を見て、誘われるように中へ入った。
壁に貼りつけられた資料を読むと、ここは麻生博士という有名な学者が島を訪れたときの記念室らしい。
ガラスケースの中に展示された書物には、常世に関する伝承やこの島に伝わる言い伝えなどが記されている。
それによると、この朧月島では"月"を"魂"に見立て、"仮面"を"月"に見立てる信仰があったようだ。
月蝕によって月が消えるとき……すなわち魂が此の世から消えるとき、魂は霊域……零へと還る。
そして次の満月に、失われた魂は新たな魂となって此の世に生まれ変わる。
月の満ち欠けを人の一生と重ね合わせた信仰。
麻生博士はそれを何年にも渡って研究し続け、一つの結論として"魂"とは"記憶"であると述べている。
確かに記憶は生物にとって必要不可欠なものだ。
生まれたときから備わっている本能も、元を辿れば遺伝子に残った記憶と言えるだろう。
記憶を全て失えば、生物は生きる術を失う。
なかなかに面白い発想だ。
だがそうなると、病院で見た院長の日記に書かれていたことは何を意味しているのだろうか。
朧月神楽で門が開けば亡くなった家族に逢えるというな文章が綴られていたが、門というのはいったい…。
「いや、今は優雨を捜す方が先決だな」
気にはなったが、この館のどこかに優雨がいるのなら、早く合流した方がいい。
病院の地下で会ったような危険な人物が他にもいたら、俺はともかく、優雨は逃げきれないだろう。
幸いホールの受付で館の見取り図は手に入れられたので、これを手掛かりに優雨を捜すとしよう。
そう決心して部屋を出ようとしたそのとき、隣の部屋からガラスが割れるような派手な音が聞こえてきた。
見取り図では書庫と記されている。
「優雨なのか?」
書庫に繋がる扉を開いて懐中電灯で中を照らすと、割れた鏡と床に散らばった破片が目に映った。
そしてその前に、一人の少女が顔を覆いながらうずくまっていた。
「大丈夫か!?」
慌てて駆け寄り少女に目立った怪我がないことを確認したところで、俺はようやくその少女に見覚えがあることに気づいた。
「雫…!」
顔を上げた彼女は、確かに優雨の妹の雫だった。
最後に会ったのは彼女が中学を卒業したときだったので、記憶の中の彼女とは少し違っていたが、まだ幼さの残るその顔は、どことなく優雨に似ていた。
「よかった…怪我はないか?」
ほっと安堵のため息をついて立ち上がる。
疲労はしているようだが怪我もないし、後は優雨と合流して早くこの島を出よう。
優雨の従妹がまだこの島にいる可能性はあるが、これ以上の捜索は危険だ。
後は警察に任せよう。
「歩けるか?優雨もここに来ているはずだ。早く合流して帰ろう」
俺はそう言って出口の扉を開けるが、雫はずっとその場に立ち尽くしたまま、ただぼんやりと俺を見上げていた。
「雫?どうしたんだ?」
「……」
いつもなら愛想の良い笑みを浮かべて返事をする雫が、今は感情の見えない虚ろな目で俺を見ている。
「雫…?」
もう一度声を掛けると、ようやく彼女は小さな声で呟くように言葉を発した。
「雫………名前………?」
自分の手を見つめながら雫は何かを必死に思い出そうとしている様子だった。
「まさか…わからないのか?」
「……」
雫はまたぼんやりとした目で俺を見上げる。
「…わからない……思い出せない……顔が………顔が………」
そう呟いたきり、雫は両手で自分の顔を覆いながら途方に暮れたように立ち尽くすのだった。