四ノ蝕 誘引
それはもういつの記憶なのか思い出せない。
庭で遊んでいた私は石に躓いて転び、膝をすりむいて痛みに泣いていた。
その声を聞いてお兄ちゃんが駆け付けて、痛いと泣く私の頭をなでてくれた。
ただそれだけのことなのに、お兄ちゃんの掌から伝わるやさしいぬくもりが好きで、どんな痛みも忘れることができた。
…いつもやさしかったお兄ちゃん。
お父さんは仕事が忙しくてめったに会えなかったし、お母さんは体が弱くてずっと病院に入院していたから、私達はいつも一緒だった。
ご飯を食べるときも、お昼寝するときも、お風呂に入るときも、いつも一緒。
それが当たり前で、そんな毎日がずっと続くんだと思ってた。
いつからだろう…。
お兄ちゃんと一緒に眠らなくなったのは。
一人でご飯を食べて、一人でお風呂に入って…誰もいない部屋で一人で夜を過ごすようになったのは。
お父さんは相変わらず忙しくて、お母さんもずっと入院したままで、私達はいつも二人で支え合いながら生きてた。
…何も変わらない。変わってないと思ってたのに。
背が少し伸びる度に、私とお兄ちゃんの距離が少しずつ離れていくような気がした。
家族だからってずっと一緒にいられる訳じゃない。
血が繋がってたって、私とお兄ちゃんは他人なんだから…いつかは別々に生きて、別々に死んでいく。
それは、わかってた。
でも…お母さんが亡くなって、お父さんも亡くなって、二人きりになったとき、私はすごく怖いと思ったの。
お兄ちゃんがいなくなったら、私は一人ぼっちになる。
この広い世界で独りきりになる。
それがすごく怖くて、無性に泣きたくなった。
一人になりたくない。独りはいや。
だから…少しでも長く一緒にいたくて…
少しだけでもいいから、遠く離れた距離を元に戻したかった。
でも…
「…ん……」
目を覚ますと、そこは見覚えのないどこかの部屋の中だった。
頭がくらくらして、自分が何をしていたのか思い出せない。
何かを…誰かを捜していたような気がするけど…顔も名前も思い出せない。
ベッドのそばには鞄が落ちて中身が散らばっていた。
女物の鞄のようだけど…いったい誰のだろう。
「ここはどこなの……お兄ちゃん?どこ?」
不安に押し潰されそうになりながら、私は転がっていた懐中電灯を手に取って廊下に出た。
歩きながら辺りを見回すけど、やっぱり見覚えはない。
階段のあるホールに出て一階に下りると、突然受付のカウンターに置いてある黒電話が鳴った。
恐る恐る受話器を取って耳に当てると、男の人の声が聞こえた。
聞き覚えのある声。
誰かに似ているような気がする。
でも…思い出せない。
それにノイズが酷くてよく聞き取れない。
『……中庭……おいで……ここ…ら…早く……逃げるんだ……』
ようやく聞き取れた言葉を理解する前にプツリと電話が切れた。
「中庭…?」
受付に置いてある案内図で場所を確認すると、今いるホールから北東に位置する廊下から中庭に出られるみたい。
声の主は思い出せないけど、少なくとも悪い人には思えない。
だって、ノイズが酷くて上手く聞き取れなかったけど、やさしい声だったもの。
「…でも、誰なんだろう…」
私は考え込みながらも中庭に足を向けた。
中庭は思っていたよりも広い場所だった。
昔はもっと花壇の花が美しく咲き乱れて綺麗な場所だったんだろうけど、今は誰も手入れをする人がいないのか、花は枯れて寂しさだけが漂っている。
私は心細さを感じながら奥にあるプールに近付いた。
水面に月が映っている。
こんな寂しい場所なのに、ここだけは幻想的でちょっとだけ落ち着く。
もう一度視線をプールに戻すと、水面に人影が映った。
「!?」
驚いて振り返るけど誰もいない。
近くに人が隠れられそうな場所はないし、気配だって感じなかった。
男の人に見えたような気がするけど…気のせいだったのかな。
ため息をついて辺りを見回すと、アーチの近くに地下に下りる階段があった。
月明かりが届かない地下は漆黒の闇に包まれていて息苦しさを感じる。
「…あ…明かりが点いてる」
廊下の奥から僅かな光が漏れているのを見つけて足早に向かうと、そこは配電室と書かれた小部屋だった。
備え付けられた装置は私にはよくわからないけど、机の上に青いタグの付いた鍵が置いてある。
「連絡通路…」
タグに記された文字を見て、私はふと案内図に書いてあった旧館への連絡通路を思い出した。
電話の声の人は、早くここから逃げろって言ってたし、もしかしてこの鍵のことを教えようとしたのかな…。
「旧館ってどんな所だろう…誰かいるかな…」
不安と期待が入り混じった複雑な気持ちで、私は鍵を手に取り配電室を後にした。