十二ノ蝕 月蝕(麻生優雨)
母さんが亡くなったとき、母さんは全ての記憶を失っていた。
父さんのことも僕達のこともわからなかった。
だけど、ただ一つ…。
もう音も鳴らない古いオルゴールだけは死の間際まで手放そうとしなかった。
それが母さんに残された最後の記憶だったのだと気づいたのは、父さんが亡くなる前、朧月島の話を聞いたときだった。
母さんが大事にしていたあのオルゴールは、葉月叔母さんの伯父、弓彦おじさんが旅行先で買った物で、その音色をまだ幼かった母さんの兄…葵が気に入って弓彦おじさんが贈ったらしい。
そして同じように母さんもその音色に惹かれて、葵が母さんに贈った。
…あのオルゴールは母さんと兄を繋ぐ唯一の記憶。
それを知っていたからこそ、父さんはずっと後悔していたのだろう。
やむを得ない状況だったとは言え、自分の勝手な判断で母さんと兄を引き離してしまったことを。
結局母さんは島を出てから少しずつ記憶を失って、雫が生まれたときにはもう父さんのことさえ憶えていなかった。
ただ静かに、病室のベッドに座って空を見つめていた。
その姿が、今も頭に焼き付いて離れないでいる。
…今ならわかる。
きっと…弓彦おじさんも母さんと同じように、島の記憶を失っていたんだ。
だからいつも、大切なものを失ったような…何かをずっと捜し続けているような、哀しい目をしていたのだろう。
…三十年前、父さんは母さんを救う為に母さんを連れて島を出た。
でも本当にそれでよかったんだろうか。
羽を千切ったら自由に空を飛ぶこともできないのに、それでもなお鳥籠の外に出ることは、本当に幸せなのだろうか…。
…僕には、わからない。
目を覚ますと、そこは乙月家の縁廊下だった。
どれくらい気を失っていたのかわからないが、まだ頭がぼうっとしている。
額に手を当てながら立ち上がったとき、襖の前に立っている人影に気づいた。
「あれは…!」
慌てて駆け寄るが、手を伸ばす前に霧のように消えてしまう。
残されていたのは、一枚の絵。
子供が描いたものだろうけど、すっかり色褪せてしまって何が描いてあるのかわからない。
「どうすれば…」
辺りを見回すと、廊下の隅に古い写真機が転がっていた。
朧月館の麻生記念室から持って来たカメラ。
このカメラには何か不思議な力があるみたいだ。
もしかしたらこの絵も…。
「…今は悩んでる場合じゃないな」
藁にもすがる気持ちで床に絵を置いてカメラを構える。
シャッターを切ると、そこにはたくさんの人間が並ぶ絵が写り込んでいた。
子供が描いたものなので判別しにくいが、中央で誰か踊っているようだ。
「朧月神楽…なのか?」
並んだ人間の顔が塗り潰されているのは、面をつけているからだろうか。
しかし、この絵が朧月神楽を示しているのは間違いないだろう。
神楽と言えば、この島には朧月神楽が行われる舞台があったはずだ。
月蝕堂という大きな建物があると聞いたことがある。
雫はそこにいるのだろうか…。
僅かな期待を胸に僕はカメラを抱えたまま月蝕堂へと向かった。