十一ノ蝕 鳥籠

「ここが月蝕堂か…。さすがにでかいな」

大きな木造の建物を見上げて霧島さんが呟くように言った。

その隣で同じように月蝕堂を見上げながら、私はだんだんと自分という存在が薄れていくのを感じていた。

ここに来るまで霧島さんからこの島のことを聞いたけど、もうほとんど思い出せなくなってる。

朧月島というこの島の名前と、月蝕堂というこの建物の名前…。

ここで昔、大きなお祭りがあったって聞いたけど…他のことはもう何も思い出せない。

少し前まで憶えていたことが、いつの間にか消えてなくなってる。

でも本当に怖いのは、記憶が失われることじゃない。

自分が大切なものを失っていることに、気づけなくなること。

忘れたくないと思う程、泡のように儚く消えてしまう。

このままでいたら、きっとお兄ちゃんのことも忘れてしまう。

顔が……思い出せない。

あのやさしい微笑みが……どうしても思い出せないの…。

忘れたくないのに…。

「おい、大丈夫か?」

ふっと意識が戻って、私は視線を前に戻した。

…誰かが心配そうに私を見てる。

そうだ、私はこの人と一緒にここへ来たんだ。

でも……名前が……思い出せない。

私は小さく頷いてその人の後に続いた。

何か目的があってここへ来たはずだけど、自分が何を求めてここへ来たのか、もうわからない。

ただ、お兄ちゃんに逢いたい。

私がまだ私でいられるうちに…。

長い廊下を進んで外に出ると、お祭りを行う広い舞台があった。

階段を下りて舞台に立つと、月光が私の肩に降り注いだ。

こうして月を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着く。

柔らかい光が全てを包み込んで、何もかもが許されるような気がする。

でも、きっともうすぐこの月も影に隠れてしまう。

月まで失ったら、私はどうすればいいんだろう。

何処へ行けばいいの?何を探せばいいの?

…わからないけど、これだけは言える。

この月が消えてしまったら、私はもう"私"ではいられない。

「…お兄ちゃん…」

月を見つめながらぽつりと呟いたとき、頭の中に手を差し伸べる誰かの姿が浮かんだ。

私を闇の中から救い出してくれる大きくてあたたかい手。

でも、顔がわからない。

やさしく微笑んでくれているのはわかってるのに、顔だけがどうしてもわからない。

「誰……誰なの……っ」

何度も何度も頭の中で残された記憶の断片を再生する。

早くしないと、唯一残ったその断片さえも消えてしまう。

そうしたらもう、私は私でいられなくなる。

「どうして思い出せないの……っ」

涙が溢れて視界が歪む。

大切な人だったはずなのに、顔が…思い出せない。

もう私には何も残ってない。

だから、せめてこの記憶だけは失くしたくない。

思い出して……。何度でも……。

このやさしい手の人は……。

「……あ……」

ふと頭の中に甦ったのは、薄暗い倉庫のような部屋で差し伸べられた手だった。

私はその手に、何の迷いもなく自分の手を重ねた。

それは…その人がとてもやさしい笑みを浮かべていたから…。

「お兄ちゃん……?」

暗闇の中にようやく一条の光が差したような気がした。

ずっと忘れていた大切なものを……大切な人を……思い出した。

包帯に覆われたやさしい笑顔……。

どうして今まで忘れていたんだろう。

「お兄ちゃん……お兄ちゃん……っ」

もう二度と忘れてしまわないように、何度も記憶の中の"お兄ちゃん"を呼んだ。

私に残された最後の光。

この光が消えてしまう前に、もう一度逢いたい。

ふと目を開けると、足元に汚れた古い手紙のようなものが落ちていた。

さっきはこんな物落ちてなかったはずだけど…。

"血で汚れた遺書"

まだ僕を僕と呼べる内に、終わりにしよう。

僕と君が同じ月日を過ごしていたこの部屋で。

たとえ残骸でしかなくても、それさえ失ってしまったら、僕は消えてしまう。

今になって少しだけ思い出したことがある。

あの日、僕は君の手を引いて逃げようとしたんだ。

鳥籠のようなこの島から君を救い出したくて。

でも、僕の居場所は籠の外にはなかった。

君の隣に僕はもういられない。

君にはもう僕は必要ない。

それでも、君が幸せならそれでいい。

だからせめて僕の中の君だけは、このまま僕だけのものでいて欲しい。

そう思っていたのに、時は君と過ごした思い出さえも蝕んでいく。

もう叶わないとわかってる。

でも、許されるのならもう一度、君に逢いたい。

たとえ幻でも、君に逢えるのなら、僕は影になったっていい。

影になって、君を待とう。

思い出のあの場所で…。

ずっとこの鳥籠の中で君を待つ。

君に逢いたい…


「あの部屋…」

頭の中に浮かんだのは血塗れになった座敷の光景だった。

お兄ちゃんはあの部屋で…終わらせたの?……自分の手で……。

「いや……そんな……だって私まだ……っ」

息ができないほど苦しくて、哀しかった。

もう逢えないの?やっと思い出せたのに…。

涙が溢れてその場に膝をついた時、遺書に書かれた言葉が甦った。

「鳥籠の中で…君を待つ……」

お兄ちゃんは今もどこかで私を待っているの?

鳥籠……。

思い出のあの場所……。

わからない…思い出せない…!

でも、あそこへ……あの家に行けば、何か思い出せるかもしれない。

「行かなきゃ……お兄ちゃんの所へ……」

私は最後の力を振り絞って立ち上がると、僅かに残った記憶を頼りに"あの家"に向かった。

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